平成23年10月2日(日)  目次へ  前回に戻る

 

ついに、出てきました。震災の前に買ってきて、「さて引用しよう」と思ったときには部屋の中のどこかに埋もれてしまっていた程樹徳「論語集釈」。部屋の隅のいろんなものの下から出てきました。(ちなみに著者の程樹徳は1877年福建の生まれ、清末に進士となるが封建官僚としての生活に見切りをつけて日本に留学して法学を学び、後、北京大学教授。1944年没。国際私法や法制史の著書もあるひとである。)

この書の中のある注釈をわたしは引用しようと思って、長い間探していたのであります。

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「論語・公冶長篇」に曰く、

子謂公冶長、可妻也。雖在縲絏之中、非其罪也。以其子妻之。

子の公冶長を謂うに、「妻あわすべきなり。縲絏の中にありといえどもその罪にあらず。」と。その子を以てこれに妻あわす。

孔子が公冶長(こうや・ちょう)のことをこのように評した。

「ヨメにもらってほしいいい男じゃ。縄付きにされているが、彼の罪ではない」

そして、自分の娘をヨメにさせた。    ・・・・→23.2.7参照

さて、この公冶長、いったいどのような事件のせいで縄付き(縲絏の中)にされたのか。どうして彼の罪ではないのか。このこと、実はふつうに論語を読んでいても、どこにも解説されていないのです。朱子なんかまったく無視。朱子が無視していることのよく書いてある荻生徂徠の「論語徴」にも何にも書いてない。

一方で、公冶長には別に変な伝説があります。

白楽天の「烏鵲贈答詩」の序に

余非冶長、不能通其意。

余は冶長にあらざれば、その意に通ずるあたわず。

「わたしは公冶長ではありませんから、カラスやカササギの語り合う言葉の意味はわかりません」

という。

すなわち、どうやら

公冶長は鳥のことばを解した!

らしいのです。

そして、唐の皇侃(こうわん)の「論語義疏」に次のような意味深な記述がありました。

旧説、冶長解禽語、故繋之縲絏。以其不経、今不取也。

旧説にいうに、冶長は禽語を解し、故にこれを縲絏に繋(か)く、と。その不経を以て、今取らざるなり。

古い注釈書によれば、公冶長は鳥の言葉を理解することができたといい、そのためにある事件にかかわって縄付きになったのだ、という。あまりまともな説ではないので、わたしは採用しない。

ああ、残念! 採用されていれば・・・。

と思いましたが、実は皇侃はさすがに一代の大儒、「不経」(まともな説ではない)と認識しながらも、六朝の范寗の「論語注」を採用して引用した後に、

別有一書、名為論釈。

別に一書がある。名づけて「論釈」という。

滅多に引用されないが、「論釈」(論語の解釈)という題の書物がある。

として、その書にある「公冶長伝説」を「参考にはならない」としながらも引き写しておいてくれていたのです。

「論語集釈」にはその「論釈」の「公冶長伝説」がまるまる引用されていたのだ。

「よっしゃー、読むぞー」

と張り切りまして、読み始めてみます。

「なんだと、ふむふむ・・・」

その書にいいますには、

公冶長従衛還魯、行至二堺上。

公冶長、衛より魯に還り、行きて二堺上に至る。

公冶長は、衛の國から魯に帰ろうとして、二國の境界のあたりに差しかかった。

のだそうでございまして、そのとき・・・。

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明日早いので、今日はここまでにします。

さらに、明日・明後日(もしかしたら明々後日も)は、おもてのしごとでHPの更新ができそうにありません。うひゃひゃ。この続きを読みたいひとがいたとしたら、これから数日の間に肝冷斎がおもてのしごとで消耗し、捨て駒となって砕けてしまわないように祈っておられるといいと思いますよ。ひっひっひ。

 

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