平成23年6月16日(木)  目次へ  前回に戻る

 

かったるいので、何も見たくもない、聞きたくもない、したくないのである。それでも・・・

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宋の徐積は耳が聞えなかった。しかし、

終日独座而天下事無不知。

終日独座するも天下のこと知らざる無し。

一日中、一人で黙然と座っているだけで、いつの間にか世の中に起こっていることを何事も御存じであられた。

また、明の徐禎卿は、

家不蓄一書而無所不通。

家に一書も蓄えずして、通ぜざるところ無し。

家には一冊の書籍も持っていなかったが、世の中のことは何でもよく知っておられた。

この二人の徐氏は、まことに

異識 (不思議な認知能力)

を持っておられたのであろう。

彼らの事績を見るに、何も見ず、何も聞かず、何もせずともこの世のことを知り、通じることは、できるようである。

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明・朗瑛、字・仁宝「七修類稿」巻五十一より。(以下も同じ)

たいへん心強いことだ。

「ようし、手抜きだ、手抜きをして世の中を過ごしながら、変なことだけ知識を蓄えて生きていくのだ。まずは傀儡人形をさらに増やして、会社や掃除・洗濯などをこいつらにやらせるのみならず、医師から命じられた食餌制限もこいつらに代理でやらせて、わしは塩気のあるものも糖分のあるものもプリン体も好き放題食べてやるのだ」

と機嫌よくしていたところ、朗仁宝が苦い顔をして言うた。

「これ。肝冷斎よ、おまえのように

以事不尽善者謂之三脚猫。

事を以て善を尽くさざる者、これを「三脚猫」と謂う。

「何事をも一生懸命やらないやつを俗に「三本足のネコ」というのじゃ」

「はあ」

「三本足のネコは動きが不自由なので、何事にも最善を尽くしていないように見える、からであろう」

「そうですか。確かにわたくし、高校生のころ体育の先生に「おまえは、しようとしないからハラが立つ」と言われて困ったことがあります」

「そうであろう、そうであろう。まことにしかり、まことにしかり。・・・・しかし、おまえより立派な三本足のネコもいるのじゃぞ」

「はあ」

「嘉靖年間(1522〜66)、南京の神楽観という道教寺院に袁素居という道士がいて、その道士の飼い猫が三本足であったのだが、

極善捕鼠而走不成歩、循簷上壁如飛也。

極めて善く鼠を捕らえ、走るも歩を成さず、簷に循(したが)い壁に上るに飛ぶが如きなり。

ネズミを捕らえるのが本当に上手であった。このネコ、移動するときには歩行するのではない。軒伝いに、あるいは壁に沿って、飛ぶように行くのだ。」

「飛ぶのですか」

「そんなふうに見えるのである。袁道士は篆刻の名人で、わしの友人の兪亭川というやつが印鑑を作ってもらいに通っていて、その目でそのネコを見たのだそうである」

―――なんだ、伝聞ですか。

と思うかも知れませんが、みなさんも町中でよくよく見ていらっしゃい。三本足のネコはふつうのネコより実は素早く、ほとんど目にもとまらぬように動いて、そしてこちらを見かえって、「にやり」とネコのくせに笑うからさ。

(注:実験のためと称してふつうのネコを三本足のネコにしたりしないようにしましょう)

 

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