平成23年5月28日(土)  目次へ  前回に戻る

 

今日もまた、まずい。まずいのです。また要らんモノを買ってきてしまった。

漢学者伝記集成 宇野哲人序 竹林貫一編 昭和三年 (ただし入手せしものは名著刊行会版(昭和44年))

である。原念斎「先哲叢談」以降、「後編」「続編」「近世先哲叢談正編」「続編」より漢学者の伝記259人分、これに漏れたる者及び近代の漢学者の伝122人分を集め、読み下してくださったものである。最後は昭和二年(1927)岡田剣西の没を以て終わる。

椎名町の古本屋で購うて、後生大事に抱えて帰宅したら、

「こんなもん、何の役に立つのじゃ!」

とおやじが怒鳴るのです。

ボクは

「とうさんは若い世代のキモチなんか何もわかってないんだ!」

と泣きながら二階の部屋に駆け上がって、涙を拭きながらページを繰った。おやじたちがジャズやフォークやなんやらのLPを抱えて帰ってきて、同じように前の世代の不理解に苦しみながらそっとレコードに針を落としたように・・・。

時代は、漢文だぜ! ベイベ。

国の「たが」が緩み、壊れ、キ○ガイどもや愚か者たちが政府や巨大企業の権力を握っている時代だ。クレージー&ルーピーだ。はじけなくってどうすんだよー!

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岡田剣西は元治元年(1864)、富山城下、代々の藩医の家に生まる。名は正之、字は君格なり。明治二十年、東京大学に学び、漢書課を卒業せり。

修史局、陸軍学校教官等を経て明治三十九年学習院教授、大正十三年東京帝大教授、同十五年退官の後、大東文化学院の改革に参画するが、病を得て昭和二年七月、東京都下駒込千駄木に卒す。年六十四。

学者としては漢〜六朝の文学史が専門であったようだが、あわせて奈良時代以来の「日本漢学史」を講じた。「日本漢学史」はこれ以前に講じた者が無く、まさしく先生の創始になる分野である。

ひととなり長身にして痩せ細り、しかれども性格は温良にして篤実、人と争うことなし。会議や宴会の席でも必ず最後に発言したので、真っ先に話したがる支那哲学科の隨軒・服部宇之吉と並べて、

隨軒の序、剣西の跋 (はじめたがりの隨軒先生、あとがき上手の剣西先生)

と称された。

大正十一年、友人・西村天囚、市村器堂、荻野芳雪、三上参次(←後のペルシア史の大先生ですね)らと鮫洲(さめず)の海楼に宴す。先生、詩を賦して曰く、

海気涵天月満楼。  海気は天を涵(ひた)し、月は楼に満つ。

勝遊此夕会名流。  勝遊してこの夕べ、名流に会せり。

不知赤壁蘇髯興、  知らず、赤壁の蘇髯の興と

孰与東瀛万里秋。  いずれぞ、東瀛(とうえい)万里の秋と。

海からしゅうしゅう蒸気が上がり、空一面に広がった。月の光は煌々と、われらの楼に満ち満ちる。

すばらしい宴席を、この夕べにおまえさんらと持つことができて、うれしいなあ。

宋の蘇東坡の「赤壁」での宴会は名高いが、

今宵、東の海に万里離れたこの地の秋の宴席と、どちらが楽しいかなあ。

大正十一年は壬戌の年に当たるのだそうですが、これは蘇東坡が赤壁に遊んで名高い「赤壁の賦」を作ってから、第十四回目の壬戌の年になる(ということは840年後)ので、それを記念したのだということじゃ。これぐらいのことが宴席でもすらすらとわかるのです。詩の出来がどうとかこうとかそういう問題ではないのだ。かっこいい。・・・と思いませんか。

「漢学者伝記集成」に拠ったほか、一部に長澤孝三編「漢文学者総覧」を参照した。)

 

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