平成22年12月10日(金)  目次へ  前回に戻る

「大東閨語」(補)という本は江戸時代以来好事家に愛され、何度も版を重ねてきた有名な本らしいから、(自分たちがたいていのことは知っていると思っておられる)みなさんは誰でもご存知なのでしょうが、わたしは(自分が如何にモノを知らないか自覚しているまともな人間なので)、知りませんでした。今日、帰りがけに手に入れてきたので早速みなさんに追いつけるように読み始めてみた。

む。

むむ。

むむむ・・・・・・・・・。

全三十四話なのであるが不敬の話も多いので不敬で無さそうなのを読んでみます。

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西宮左相愛紫式部。

西宮左相、紫式部を愛せり。

西宮左大臣・源高明は紫式部を愛されたのであった。(おそらく虚偽)

あるとき左大臣がおっしゃるには、

婦慧則穴(※)自不痴。

婦、慧ならば穴(※)おのずから痴ならず。

「賢いおんなは、アソコもおのずとさといというでのう。」

※「穴」と表記したところは実際には、「尸」に「穴」という字が入ります。この字は「ヒ」と読み、康煕字典にも出てくるちゃんとした漢字ですが、その意味は・・・おのずと明らかであろう。

此児一揚臀、百滋成味。従前従後、無施不可。

この児、ひとたび臀を揚げれば、百滋味を成す。前よりし後よりし、施して不可なる無し。

「このおんなが、ひとたび尻をもち上げれば、あらゆるいい味わいが味わえるのじゃ。前からしても後ろからしても、どうやってもすばらしいのじゃ」

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亜相行成、与清少納言情好和諧。

亜相行成、清少納言と情好和諧す。

権大納言・藤原行成は、清少納言と心を通じ楽しみあっておった。(虚偽かも)

あるとき、

合腹累股臥、行成戯曰、玉門氤氳、一若桃花源。

腹を合わせ股を累(かさ)ねて臥すに、行成戯れて曰く、「玉門氤氳(いんうん)として、一に桃花源の若(ごと)きか」と。

腹をひっつけ股を重ねて横になりながら、行成さま、にやにやとおっしゃるに、

「おお、おお、このすばらしい入り口の奥、雲や霧がさかんに湧きあがって、まるで谷川の上流にあるという桃源郷のようじゃのう」

清氏応声曰、阿郎偉求(※)、秦時所未聞。

清氏、声に応じて曰く、「阿郎の偉求(※)は秦時にもいまだ聞かざるところなり」と。

清少納言、間髪を入れずに答えていう、

「ああ、だんなのおおきなコレのごときは、秦の時代にも聞いたことがないのでありやんす」

※「求」と表記したところには実際には、「尸」に「求」という字が入ります。この字は「キュウ」と読んで、やはり康煕字典にも出てくるちゃんとした漢字ですが、その意味は・・・おのずと明らかであろう。

この語には、二つの典故が踏まえられています。

@    陶淵明の「桃花源記」では、桃源郷のひとたちは自ら

先世避秦時乱、率妻子邑人、来此絶境、不復出焉。

先世、秦時の乱を避けて妻子邑人を率い、この絶境に来たりてまだ出でず。

わしらのご先祖は、秦の終わりの戦乱を避けて、妻子や小作人たちを率いてこの孤立した地に逃れてきて、以来一度も外の世界に出たことはございませぬのじゃ。

と言うておりますので、「穴の奥は桃源境じゃ」といわれた清少納言は

「あちきは桃源境の人間ですから秦の時代のことは知っておりんすが・・・」

と受けたのである。

A秦の始皇帝の母后は淫乱で、元情夫で宰相の呂不韋(始皇帝ノ真ノ父トモ云フ)がこの母后との関係を整理するため、母后に嫪毒(★)(ろうあい)という男をあてがった。この毒(★)は史記によれば「大陰人」(巨大なるち●ぽこのおとこ)と記されており、ち●ぽこで桐で作った車輪を転がすことができた、という。(巻85・呂不韋伝)

★「毒」と表記した文字、上の「主」の部分を「士」に置き換えて読んでください。「アイ」。

清少納言は、「あちきは秦の人間ですからその嫪毒(★)のことは知っておりんすけど、だんなほどのは聞いたことが無いんでありんす」と賞賛したのである。

清少納言の才気煥発をよく写す、というべし。

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「大東閨語」は天明乙已年(1785)に京都の金子強先生・金羅摩というひとが書いたものだということである。江戸の毛唐・陳奮翰が序を書いているが、この陳奮翰とは大田南畝のことであるともいう。三十四のお話には画がついていて、これがまたオモシロいのだ。が、まあみなさんはカシコいから高校生ぐらいで読んでいるのでしょうから常識の範囲のことなんでしょうけどね。わしもみなさんにようにカシコければもっと早くこの書を知ったろうになあ。どれほど勉強したらみなさんに追いつけるのかなあ。

 

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