平成22年9月24日(金)  目次へ  前回に戻る

安南にする

ですが、まずは次の川柳を読み、味わいなさりませ。

継信(つぎのぶ)を安南にする壇の浦 (「誹風柳多留」146)

継信(つぎのぶ)は義経の郎党であった佐藤継信のことである。「平家物語」によりますと、屋島の戦いの際、平氏の名将・能登守教経、源氏方の大将・義経を見つけ、「源九郎、武運尽きたり」とばかり大弓きりきり引き絞って百発百中の矢をひょうと射た。義経、避ける隙もあらばこそ、その矢の餌食に・・・、と思った瞬間、佐藤継信が義経の前に立ちはだかり、教経の矢をその胸で受け止めたのであった。

「おお、継信」

と義経は継信の胸から矢を抜いてやったが、さすがに教経の強弓、その矢は鎧を通し継信の厚い胸を突き抜けていた。

「く、九郎さま、ご、ご武運を・・・ぐふ」

と言葉遺して継信は息絶えたのであった。・・・・・云々。

この句は、「屋島」を「壇の浦」に間違っているのですが、いずれにせよ

安南にする

とは、胸に穴を開けること、である。

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むかし、聖王・禹が夏国を建て天下を平定したとき、諸侯を浙江の会稽の地に集めた。ところが、

防風氏後至。

防風氏後に至る。

防風の侯が集合に遅れた。

「ほかの諸侯にしめしがつかぬ」

禹王は

殺之。

これを殺す。

防風の君をぶっ殺した。

時に夏の国の力がたいへん盛んだったため

二龍降之。

二龍これに降る。

天から二匹の龍が下ってきて、禹王に仕えていた。

天下を平定した禹は 范成光なる者を龍の御者とし、自らそれにまたがって空を飛び、世界を周遊した。

既周而還、至南海、経防風。

既に周して還り、南海に至りて防風を経。

ぐるりと一周して最後に南海の地、防風の国の上を通り過ぎようとした。

さて。

防風の国の臣らは自分たちの主君が禹にぶっ殺されたことを怨みに思っており、その禹が龍にまたがって通りかかったというので、怒りに燃えてこれに矢を射かけた。

すると、

疾風迅雷、二龍昇去。

疾風迅雷おこり、二龍昇り去る。

はやての風、はげしき雷が起こって、二匹の龍は急上昇し(矢は届かなかっ)た。

防風国の臣は驚き恐れ、

自貫其心而死。

自らその心を貫きて死す。

自ら刀で心臓を刺し、胸部に穴を開けて死んだ。

禹は彼らの忠節なることを嘉したまい、その罪を責めなかっただけでなく、

抜其刃、療以不死之草。

その刃を抜き、不死の草を以て療す。

その刀を抜いてやり、そこに「不死の草」を塗って治療し、生き返らせてやった。

こうして、防風の民は胸に穴の開いた姿でよみがえり、以降、「穿胸(せんきょう)の民」(胸に穴のある民)と呼ばれることとなったのである。

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これは三世紀・晋の大博物学者・張華さま「博物志」外国篇にあるお話。

「穿胸の民」は防風の遺民であるから、南海に住んでいること、がわかりますね。

さて、「山海経」を開きますと、この「穿胸民」と同じと思われるひとたちが

貫胸国

として登場する。

この貫胸国は赤水という大河(メコン川ともいわれる)の東にある、とされ、「山海経」に附された画によれば、この国の民は胸部に丸い穴があって、貴人の移動の際にはこの穴に棒を通し、強力の者二人が前後からこの棒をかついで、まるで駕籠をかくようにして運んでいくのである。

この画が明代の絵入り百科事典である「三才図会」に継承され、さらにそれを種本とした我が国の「和漢三才図会」にも同じ構図の画が採用されて、同書の

巻十四・外夷人物篇

○穿胸(せんけう チェンヒョン) 

三才図会云、穿胸国在盛海東、胸有竅、尊者去衣令卑者以竹木貫胸擡之。

 (三才図会に云う、穿胸国は盛海の東に在り、胸に竅(あな)ありて、尊者は衣を去り、卑者をして竹木を以て胸を貫きてこれを擡(もた)げしむ。)

と書かれてある。

江戸のひとたちはこの「穿胸国」はチュウゴクの南の方にあるのだから安南にあるのであろう、と推測しまして、胸部に穴があいている「安南」人というのを想像して楽しんだのだ。

●安南の辻駕(つじかご)はい棒はい棒  (「誹風柳多留」38)

  安南の辻待ちの駕籠は(日本のように「はい、駕籠いかが」とは言わずに)「はい、棒いかが」「はい、棒いかが」と言うのだろうなあ。

●安南に落ちて雷まごまごし (「誹風柳多留」100)

  安南のやつらには(胸部から腹部にかけて穴になっているため)ヘソがないから、ヘソをとりに落ちた雷さんが困るのだろうなあ。

●安南の女房穴くり金を貯め  (「誹風柳多留」103)

  安南では女房族は「へそくり」しようにもヘソがないから「穴くり」の金を貯めこむこととなるのだろうなあ。

などとうたわれているところである(なお、「和漢三才図会」には「不腹人」(腹部の無い国民)の記載もあるので、これもごっちゃにしているようである)。

この「安南」が動詞化して「胸部に穴を開ける」意となったのが

安南にする

なのである。

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やつらを安南にしてやりたい。

などと書くと犯罪予告になって起訴されるのかな。シナびとは公務執行妨害でも無罪放免なのにねえ。

今日のお昼過ぎのニュースにははじめ愕然とし、「国を売る」の行為と憤激した・・・・が、その後つらつら考えるに、夕刻になって、これは国を売ったのでなく、単にセキニンを下に押し付けたのであり、●邸のお偉方は「国を売る」という判断さえしていないのではないか、と思い至りました。

だいたい釈放カードを切るなら相手政府にも相応の根回しをして、相手にもいろいろと人民の感情を整理させる準備をしなければならないのに、それもさせてないから、相手政府もコケちゃうよー、というような稚拙さ。その他関係国の思惑なんか考えにものぼらないかったでしょう。

「外交の専門家」の意見も交えず、「日本国の司法部がこう判断した」そのことがどういう結果を招こうとも、「廟堂」の判断ではなく法治国家の司法の御判断なのであるから、守らなければならないのである。それを忠実に守った廟堂は責任はないのである。

という整理をしただけなのではないか。

東条英機さんが、英米と開戦するの愚を知りながら、「こういう場合には開戦する、という閣議決定があるからどうしようもない」と過去の閣議決定を墨守して開戦に及んだこと(五百旗部なんとかさんの本で読んだ)とそっくりですね。

昭和40年代に「他策無キヲ信ゼント欲ス」と判断したひとたちに比べて、何と言う卑劣か。政治家なら、子孫からの批判を恐れてこんなことできまい・・・と思ったけど、今廟堂にあられるお歴々は「政治家」ではないのでしたな。「権力闘争家」でしたネ。

 

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