平成22年8月9日(月)  目次へ  前回に戻る

木鶏といえば双葉山ですが、今日は同じ木でも「鵠」のこと。

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魏の安釐王(あんり・おう。在位:276〜243)の時ということですから、戦国ももう終わりに近い時代ですが、ある日、王は空を行く(コク。くぐい。要するに白鳥のことである。曰く、白鳥は「こく・こく」と鳴くので、その声を写して「コク」というのである、と。)を見上げながら呟いた。

「なんと楽しそうではないか、あの白鳥は。

寡人得如鵠之飛、視天下如芥也。

寡人、鵠の如きの飛を得ば、天下を視ること芥の如きならん。

わしがもしあのハクチョウのように空が飛べたらのう・・・。そうしたらこの天が下のことは、あくたのようにちっぽけなことと見えることであろう。

ところで、王の食客の中にひとり、隠遊者がいた。

「隠遊者」とは、「隠」(目に見えぬ世界)に「遊」(自由に行き来する)ことのできる能力者のことである。一応ここでは「時空旅行者」と訳してみます。

この時空旅行者が王の言葉を聞いて、

「王さまの願いは真心からのものでございましょう」

とうなずき、

木鵠(もくこく)

を製作して献上した。

木でできた白鳥である。からくりで、かたん、かたん、と羽が動くように作られていた。

これを献上された王は、側近の者たちに、腕組みをして言った。

此有形無用者也。夫作無用之器、世之奸民也。

これ、形有りて用無きものなり。それ、無用の器を作るは、世の奸民なり。

これは、きちんと作られたものだが、何の役に立つものだろうか。おお、役に立たぬモノを作(って、ひとに愉楽を教え)るのは、社会のダニのような民ではないか。

そこで、時空旅行者をおびきだし、捕らえて罰しようとした。

時空旅行者はそのたくらみを知って、わざと王の前に現われると、

大王知有用之用、未悟無用之用也。

大王、有用の用を知るも、いまだ無用の用を悟らず。

「大王さまは、役立つものを役に立たせるのはお上手でございますが、役立たぬものこそ役に立つということはご存知ないようですのう。

がはははは」

と大笑いし、

ひょい

と木鵠にまたがると、

「わたしは大王がこの鳥に乗って空を翔けることで、地上の憂さを忘れて真理に近づく時間を持てるだろうと思ったのじゃが、なかなかそこにはお気づきいただけませんのじゃなあ」

と言うと、木製のその器械のどこをどういじったのか、それはぱたぱたとせわしなく羽を動かしはじめると、

ふわり

と宙に浮び、そのまま時空旅行者を乗せて、

遂翻然飛去、莫知所之也。

遂に翻然として飛び去り、ゆくところを知るなし。

ふわふわと飛び上がり、どこか知られぬところに飛び去ってしまった。

側近たちは

「逃がすなー」

「出会えー」

と騒いだが、王は彼らを制して、

「しかたない、わしは地上のことで手一杯ゆえにな」

とさびしげに笑いながら、木鵠の行くのを見送った―――という。

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宋・劉敬叔「異苑」より。

―――ああなんとオロカな王だ、そういう器械があったら他人を乗せて儲けることもできたし、売却してその資金で金融ができたかも知れない、経済を知らないひとはダメだなあ。

―――待て待て、王は軍事に使おうと考えて秘密を独占するため、時空旅行者を消そうとしたのだぞ。なかなかすぐれた王ではないか。

―――とにかく謝罪が必要だ。

自分の目線でしか見えないものでございますが、一週間ぐらい休んだら別の目線からも見れるようになるカモよ。

ちなみに、「鵠」(クグイ)は大、「鶩」(ブ。あひる)は小であるが、その色や形は似ているので、

刻鵠不成尚類鶩。

鵠を刻みて成らざるもなお鶩に類す。

白鳥の木像を作ろうとしたら、失敗してもアヒルのようなものはできる。

と言い習わしまして、立派なひとを真似したら、立派にはなれなくても善き人にはなれる、ということわざとなる(「後漢書・馬援伝」)のでございます。

 

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