平成22年7月4日(日)  目次へ  前回に戻る

今日は暑かった。あんまり暑いので古代に紛れ込んでしまったようで、古代の学校(メンズ・ハウス)に着いてしまいましたので、授業を覗いてみます。

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まず大先生が

「ああー、ありがたや、ありがたや、精霊さまよー」

と唱えてからおっしゃいますことには、

鬼神之為徳、其盛矣乎。

鬼神の徳たるや、それ盛んなるかな。

精霊の霊力というのはたいへんなものであるのう。

「ああー、ありがたや、ありがたや、精霊さまよー」

視之而弗見、聴之而弗聞、体物而不可遺。

これを視れども見えず、これを聴けども聞こえず、物に体して遺すべからず。

それを視ようと思ってじろじろ視ても見えないし、聴こうと思って耳をすましても聞こえない、けれど、それはあらゆる物を活性化してくださる。

「ああー、ありがたや、ありがたや、精霊さまよー」

使天下之人、斉明盛服以承祭祀、洋洋乎如在其上如在其左右。

天下のひとをして、斉明盛服して以て祭祀を承け、洋洋乎としてその上にあるが如く、その左右にあるが如からしむ。

世界中のひとは、みな清潔に盛装して精霊のおまつりをする。その場にはそれは流れるように充満して、ひとびとは自分たちの上に浮かんでいるようにも感じるし、自分たちの左右に動いているようにも感じることになるのである。

「ああー、ありがたや、ありがたや、精霊さまよー」

詩経・大雅・抑篇にかくいう、

神之格思、不可度思、矧可射思。

神の格(いた)るや、度(はか)るべからず、いわんや射(いと)うべけんや。

神霊さまがお見えになるときは、ああ、推測できない、ああ、それなのにいやがることなどできようか、ああ。

「思」は語辞で、格段の意味はないのである。

夫微之顕誠之不可揜如此夫。

それ、微の顕かなる、誠の揜(おお)うべからざる、かくの如きかな。

ああ。見にくいものがはっきりして、真実が隠せなくなる、というのはこういうこと(精霊のはたらきが感じられること)なのじゃ。

これは中庸・鬼神章」の講義でした。

メンズ・クラブのひとびとはみなで「ああー、ありがたや、ありがたや、精霊さまよー」の唱えごとを三回繰り返した後、

「ありがたいですなあ」「まったくですなあ」「精霊はおりますからなあ」

と話し合っていた。

・・・・そこへ、どやどやと三人組の男が入ってきました。

三人は、

「なんという原始的な解釈ですか」

「みなさん、しっかりしてください」

「精霊などいないのですから」

と言うのである。

「お、おまえさんらは何者じゃ?」

「われらは宋の時代からやってきた三人の儒学者です。わしが程伊川、こちらが張横渠、そちらのが朱晦庵じゃ」

「わしらは「鬼神」について以下のように考えており申す」

程伊川:「鬼神」というのは天地のはたらきであり、造化の結果である。

張横渠:「鬼神」というのは二気(「陰」と「陽」)の正当な動きである。

朱晦庵:二気の面から見れば、「鬼」というのは「陰」の精、「神」というのは「陽」の精のことである。気を一つ塊と見た場合には、ぶいぶいと伸びていくときが「神」であり、戻って帰ってくるときが「鬼」である。「伸」(シン)=「神」、「帰」(キ)=「鬼」というわけじゃ。「鬼神」は「鬼」と「神」の二つのものなのではない。実は一物なのである。

「いかがでしょうか、おいらたちの解釈は」

「かなりクールでしょう」

「要するに「鬼神」と書いて「ゆうれい」とか「こびとみたいな精霊」のことだと信じているやつはバカだ、ということです。「鬼神」という古人の言葉は科学的な言葉のはずです。そうではないのですかな」

古代のメンズ・クラブのみなさんは

「う〜ん、どうかなあ」

「科学的なのはいいことのような気がするけど、間違っていることが多いからなあ」

「霊的なものは絶対いるからなあ」

と腕組みして、考えこんでしまいました。

・・・・わたしはそろそろ家に帰って寝ることにします。明日がくるので・・・。

 

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