平成22年3月24日(水)  目次へ  前回に戻る

へー。
わたくし(于慎行)のような明の時代のニンゲンからみますと遥か昔のことであるが、前漢から帝位を簒奪した王莽の「新」の時代(紀元9〜25)、長安近郊の池陽の地に

有小人。

小人あり。

コビトが出現した。

その背丈は一尺余といいます。新のころの一尺は23センチ前後なので、30センチぐらいということになりましょうか。

このコビトは集団を構成しており、また高い技術文化を持っていたらしく、

或乗車馬、或歩行、操持器物、大小各称。

あるいは車馬に乗じ、あるいは歩行し、器物を操持して、大小おのおの称(かな)う。

ある者は馬車に乗り、ある者は騎馬、ある者は歩行していた。我々の社会で使うのと同じようないろんな器具を使用していたが、その大きさは彼らの背丈に応じたものであった。

という。

しかし、彼らの姿は、

三日而止。

三日にして止む。

三日ほどで見えなくなった。

・・・のだそうである。

そんなことがあるであろうか。

たいへんウソっぽいお話なのでデタラメであろう、と誰もが思うであろう。が、しかし―――。

―――萬暦甲戌の年(1574)、甘粛で城を築くための工事を行っていたところ、

掘地得小棺千余。

地を掘りて小棺千余を得たり。

地面を掘っていたところ、小さな棺が千いくつも出てきたのであった。

これらは、

皆長尺余。

みな長さ尺余なり。

すべて一尺余りの長さであった。

我が明代の一尺は31センチ前後ですから、40センチぐらいということになりましょうか。

その棺を開けてみるに、

其中人皆不腐、衣裳顔色一一可弁。

その中の人、みな腐らず、衣裳・顔色いちいち弁ずべし。

その中に葬られていたひとたちは、みな腐敗しておらず、着ている物、顔つき、すべてはっきりしていて、それぞれのひとの違いが弁別できるほどであった。

また、衣には一寸(3センチ)ばかりの潞(山東。筆者の出身地でもある)の名物のつむぎで縁取りがなされていた、というのである。

千人分以上の遺体が発見されたこと、山東の産物を移入していたこと、などから、このコビト群も集団として高い文明を持っていたことが想像されます。

惜しいことに、この時期は内閣を厳格で合理主義者の張居正が取り仕切っているころであったので、甘粛府からはこのことはあえて上奏しなかったらしく、正式な記録も証拠物品も遺されていない。しかし、都・北京ではどのように知れ渡ったものかこのことを知る者が多く、寄ると触ると噂しあい、

共相駭愕。

ともに相駭愕せり。

お互いに驚き騒ぐばかりであった。

―――という事件は、近年のことであり、わたくしが青年時代に北京市内で見聞きしたことである。その事実は誰にも疑うことはできないであろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・という明・于慎行(1545〜1608)の「穀山筆麈」巻十五に載る話は何しろ同時代人の記録ですから、さすがにウソだとは言い切れないと思います。・・・思いました。いや、うーん。・・・だがしかし、「山海経」をはじめ古代より多くの書物にコビトの存在は記録されています。また、我が国でも、吉見百穴といわれる横穴群は先住民コロボックルの住居跡だ、と帝国大学の教授までなされた方がおっしゃっておられるのですから、ムゲに否定するわけにもいかぬ。もしかしたら―――いや、しかし・・・。

 

表紙へ  次へ