平成22年1月25日(月)  目次へ  前回に戻る

わしのところにもこの間来たにゃあ・・・。

乾隆五十一年(1786)は丙午の歳であった。

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「丙」も「午」も火の力を表わす。そのせいであろうか、この年は江南地方はひどい日照りとなり、三月から七月まで一日たりとも雨が降らなかった。

田畑の害もあったが、年寄りには暑気がことのほか応え、わし(←梅渓・銭履園先生の自称)のおやじはこのとき六十四歳であったが、暑さに当たって腹下しを起こし、

医薬罔効、飲食不進者至四十日。

医薬効罔(な)く、飲食進まざること四十日に至る。

薬石の治療も効果無く、食べ物・飲み物を摂取できなくなって四十日にもなった。

本人もかなり弱気になったようで、ある日、枕頭のわしに向かって、

「冰(←履園先生の名)よ。昔、占い師に見てもらったところ、わしの寿命は七十と少しだと言われたものであった。しかし、この様子じゃ。占いなどあてにならぬものじゃのう」

とおっしゃり、わしも口では弱気になられるなよと申し上げたが、目頭が熱くなるのを抑えることができず、部屋から下がった後ひとりで涙を拭ったものであった。

ところが真夏のある晩の深夜のこと。

なにごとか、

異香満室、庭樹粛然。

異香室に満ち、庭樹粛然たり。

普段嗅ぎ慣れぬ不思議なにおいが家中にたちこめ、庭の木がひょうひょうと音を立てたのである。

うるさく鳴いていた虫の声も聞こえなくなった。わしは寝付こうとしていたときであったがどうも落ち着かず、灯をともして書を開いた。

しばらくすると、部屋の外で衣擦れの音がする。顔を上げると、床にあったはずのおやじがわしの部屋まで歩いてきたのであった。

「ち、父上・・・、大丈夫ですか」

と慌てて立ち上がり、手をとって部屋にお座りいただくと、おやじは意外としっかりした足取りでわしを押し止め、言う。

頃吾夢見十神人来。邀余行、余辞之、已首肯去。吾病其痊乎。

頃(さきごろ)、吾夢に十神人の来たるを見る。余を邀(むか)えて行かんとするに、余をこれを辞せば、すでに首肯して去りぬ。吾が病、それ痊(いえ)んか。

さきほど、わしはうつらうつらと夢を見ていたのじゃ。すると、そこへ「十人の方々」がお見えになって、わしを連れて行こうとなさる。わしがお断りすると、あの方々はうなずいて、去って行かれた。おそらくわしの病いは治るようじゃ。

おやじがそう言い終わったとき、また虫が鳴き始めた。

「な、何を言うておられるのか」

しかしおやじはわしの疑問には答えず、机の上の書の題を見て、

「おお、杜詩か。涼しくなったらわしも久しぶりで読み直してみるか」

と言って、笑った。

―――悪い夢をご覧になられたのか?

とそのときは思ったのだが、おやじはその日からだんだんと飲食をするようになり、腹の下りもおさまり、一月ほどすると全快してしまったのである。

なんとも不思議なことであったが、あの晩おやじが口にした「十人の方々」というのがどういう方々か、回復した後のおやじにわざわざ訊ねる気にもならなかったし、おやじの方からもその後、そのことについて何か触れたことも無かった。

ところが、乾隆六十年(1795)の秋の初め。おやじは前日までぴんぴんしておられたのだが、ある朝、

夜夢十神人復至。

夜、夢に十神人のまた至る。

「昨晩、夢の中に十人のあの方々がまたお見えになった」

と言い出した。

なんだか、目はこちらを向いているのだが、視線はわしではなく、わしの背後の遠くを見つめているようだ。

「父上、何をおっしゃっておられる? 「あの方々」とはどのような方か?」

と問うたが、おやじは朝の光の中に幻を見ていたのか、何かにおびえたように震え、

吾将殆矣。

吾まさに殆うからん。

わしはどうやらそろそろのようじゃな・・・。

と言った・・・。

・・・そのことばが最後のことばになってしまった。

おやじはそれから一月ほど床にあって、八月二十七日の未明に帰らぬ客となったのであるが、その間、起きているときも宙を見つめ続けているばかりで、わしや家族が何を語りかけても応えることが無かったのである。

それからもう二十年にもなり、わしも六十を越えた。いまだに「十神人」の正体はわからぬままだが、あるいはその方々はわしのもとにも間もなく訪れるのであろうか。

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これはいいハナシでしたね。久しぶりで爽快感で胸がすうっとした。銭梅渓先生「履園叢話」二十二より。

時が来たれば、わしらのもとにも誰かが来るはず。誰が来るのかどきどきしますね。ハーモニカ吹きの男かも。

 

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