平成21年 9月27日(日)  目次へ  前回に戻る

昨日の続き。

ある日、袁丹叔先生が散歩の帰り、自宅の門前にさしかかりますと、ちょうどあちらの方からひとり、髯もじゃらで純朴だが愚鈍そうな青年がやってきた。どこかの家の下僕であろうか。

先生が杖をついてその男をじろじろ見ていると、その男、

「これ、ご老人、教えてもらいたい」

と問いかけてきた。

「見かけぬ顔じゃな。なんの用じゃ?」

「おれは府知事殿の家の下僕を務めておる者じゃが、府知事殿から書状を届けよと言われてやってきたのだ」

男は誇らしげに言うた。袁丹叔は少し考えて、今の府知事を思い出してみる。年配の、無表情なやつであった。大して有能とも思えぬが、要路に取り入るのに無能とも思えない、という感じのやつであったな・・・。

「ほう。府知事殿の使いか。それなら何でも教えてやるぞ」

「では訊ねるぞ。

此間有一袁痴、居何処。

この間、一袁痴なるもの有らん、何れの処に居るや。

このあたりに、痴れ者の袁、といわれる者が住んでおるはずじゃが、どの家か教えてもらえぬかな」

ふむ。

「「痴れ者の袁」とな? そんな名前のひとがいるのか?」

「うむ、府知事殿がそう言っていたのじゃ」

ふむ。

丹叔はまた府知事の無表情な顔を思い出し、一瞬苦笑したが、すぐ真顔に戻り、

「ああそうじゃった、そういう人がおった。ここはちょうどそのひとの家なのじゃ。わしが取り次いでやろう」

「や、それはありがたい」

丹叔は男から府知事の書状を預かると、

「返事をもらってきてやるから待っておるがよいぞ」

と言うて門の中に入って行った。

―――しばらくして、丹叔は門を開き、

「袁痴どのに書状を届けてきた。袁どのは、おぬしに一つことづけたいものがあるそうじゃ」

と言って男を中庭に招じ入れ、その庭に置かれた大きめの箱を見せた。ようやく背中に背負えるかどうかというような大きさである。

「袁痴どのは、これを持って行ってほしい、とのことである。

此係宝物、爾主向借、不能不与。

これ宝物に係り、爾の主、向借せんとし、与えざるあたわず。

この中にはある宝物が入っているのじゃが、おまえの主人はこれを袁痴どのから借りたいそうなのじゃ。袁痴どのは府知事のおっしゃることじゃ、貸さざるを得ぬじゃろう、という。

先ほどの書状にはおまえにこれを持ってこさせるように、と書いてあったそうなのじゃ」

「そうか、ではこれを背負わせてくだされ」

気のいい男である。

「うむ、気をつけて持って行ってくれよ」

丹叔はそう言うて男にその箱を背負わせた。

「むむ、なかなか重いな」

その声を聞いて丹叔はにやりと笑い、それから真顔に戻って、

「そうそう、袁どのは、返事の書状もこの箱の中に入れておいた、と言うておられたぞ」

と言うたのであった。

・・・・・男は箱を背負い、ふらふらになりながら府知事の邸宅に帰ってきた。

「ち、知事さま、お言いつけの宝物を預かってまいりました・・・」

府知事は無表情な顔を少し歪め、

「宝物? わしは今度の宴会の招待状を預けただけなのじゃが・・・」

とけげんそうに呟きつつ、箱を下ろさせて蓋を開くと、

乃一粗石、重二十余斤。

すなわち一粗石、重さ二十余斤なり。

入っていたのは、一個のどこにでもあるような大きな石で、重さは12〜15キログラムもあろうというものであった。

(一斤=600グラムであるので、二十余斤を20〜25斤と見て計算してみたのである。)

「な、なんじゃこれは?」

「返事も箱に入れた、とおっしゃっておられましたが・・・」

確かに、石の上に袁の風雅な書法で、十六の文字が書かれていたのであった。

尊价無礼、呼我袁痴。無法処治、以石圧之。

尊价(そんかい)無礼なり、我を袁痴と呼ぶ。処治せんとするに法無し、石を以てこれを圧す。

「价」(かい)は「介」と同義。「介」には「介助」のように「助ける」の意があり、ここでは部下や使用人をいう。

あなたの部下(のこの男)はまったく礼儀を知らんやつで、わしのことを「痴れものの袁」と呼びおった。

処罰しようにも法的には執行権が無いので、この石で石責めにしてやりました。

というのである。

知事、男に、

「おまえ、袁どのに「袁痴」と呼びかけたのか」

と訊くに、男答えて、

「袁痴どのではなく、袁痴どのの家の近くで杖をついていたおやじに、「袁痴」の家を教えてくれ、と言いました。だって知事さまが「袁痴」のところにこれを届けろ、とおっしゃったではございませんか・・・」

「あはは、そうであったな」

知事大笑、即其僕亦自笑也。

知事大笑し、すなわちその僕もまた自笑す。

知事は珍しく顔をほころばせて大笑いし、つられて下男もまた自ら笑うたのであった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上。「庸闕ヨ筆記」巻四より。心温まる系でしたな。

 

表紙へ  次へ