平成21年 8月27日(木)  目次へ  前回に戻る

久しぶりで東京に。

論語・憲問篇の末尾近くに、「原壌夷俟」条という名高い一条があります。

原壌夷俟。子曰、幼而不孫弟、長而無述焉。老而不死。是為賊。以杖叩其脛。

原壌、夷して俟つ。子曰く、幼にして孫弟ならず、長じて述ぶる無し。老いて死せず。これ賊と為す、と。杖を以てその脛を叩く。

原壌があぐらをかいて待っていた。(それを見て)孔子は、「こいつは幼いころは目上のひとを敬することなく、大人になってからは立派なことは何一つしなかった。今、老人になっても死のうともしない。こういうのを悪党というのだ」と言い、ついていた杖で原壌のすねを打った。・・・@

という。

みなさんは賢い。

だから、もうここまで読んだらすべてがわかる。わかって、この後の時間は人生にとってもっと大切なことに使うのでしょう。はい、さようなら。

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ということで、ここからあとを読むひとは、おろかなので@を読んだだけではすべてがわからないひとということになります。

「朱子集注」のこの条の注を読んでみますと、

原壌は孔子の故人(古い知り合い)である。(このひとは)母が死んだときに歌を歌った。けだし、老氏(老子)の流派で、自ら礼法から外れて自由に振舞う者である。「夷」は蹲踞、すなわちアグラをかいて座っていること。「俟」は「待つ」こと。孔子の来るをの見て、あぐらをかいて待っていた、と言うのである。「述」というのは(「称賛」の)「称」と同じような意味(で、「ほめる」ということ)。「賊」は害のあるひとの名である。

このひとが、幼いころから大人になるまで、何一つ善い振る舞いが無く、しかし世の中に長く生きている。このことにより、いたずらに常識を破り風俗を乱してきた。これは「賊」といわざるを得ない。「脛」は足の骨。孔子は以上のように原壌を責め、それからそれを理由として曳くところの杖を以てその脛をゆるく打ち(「微撃」)、あぐらをかいていられないようにさせようとしたのである。  ・・・A

ということだそうで、だいたい@と同じですが、明確に違うところがあります。

「述」の解釈で、旧注は論語の別のところにある用例からみて、「(孔子は)述べて作らず(という態度であった)」の「述」だとして、「古典を学び、後世に伝えるという立派なしごと」のことである、と解しているのですが、朱子は「孔子がそんな立派な仕事を田舎者の原壌に求めるはずは無いだろう」と考えたのだと思いますが、「述」は「称」(たたえる)である、と解釈して、「ほめられるほどのこともしなかった」というように読んでおります。

(なお、宮崎市定大先生は「怵」(ジュツ)=おそれる、である、と言うておられます。朱子と同様に「業績が無い」といってわざわざ杖を叩くほど責めるはずが無い、大人になっても(世間をおそれて)遠慮することもしない、という意味じゃ、ということである。(「論語」))

ところで、Aの下線部で朱子が「原壌は孔子の古い知合いで・・・云々」と言っているのは、彼の妄想とか捏造ではない。

これは、礼記・檀弓下篇の次の説話をもとにしているのである。

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原壌の母が死んだとき、まだ若かった孔子は土を掘って棺を入れる外枠を納めるのを手伝った。その仕事がだいたい終わったとき、原壌は側の木に登り、

「ずいぶん長いこと、ぼくは歌を歌わなかったものだなあ。」

と言い、歌を歌い始めた。

ネコの耳にはぶちがある。

おまえの引っ込めようとした手をつかまえる。

と。

孔子は、作業を終えると、その歌が聞こえないふりをして、木の下を通って帰ってしまった。

別のひとが言う、

「おまえさん、ともだちの原壌は礼のきまりを失して親の葬儀のときに歌うような真似をしていた。どうして止めさせなかったのだね」

孔子は答えて言うた、

丘、聞之。親者毋失為其親、故者毋失為其故。

丘、これを聞く。「親しき者はその親しきものたるを失うことなかれ、故(ふる)き者はその故きものたるを失うことなかれ」と。

丘(孔子の実名である)はこのように教えられてきました。

「親族とは、いつまでたっても親族としての付き合いをせよ。幼馴染とは、大きくなってからも幼馴染としての付き合いをせよ」と。 ・・・B

――――

というのが「礼記」に載っていることで、朱子はこの記述を根拠にして「原壌は孔子の故人であった」と注記しているわけです。

若い孔子が口にしている「親者・・・云々」ということばは、血族集団と地域年齢階梯集団に両属していたのであろう、当時の自由民(「士」)の当然あるべき姿として、地域集団での行動様式を教える「学」「庠」「序」などと呼ばれたメンズクラブ(いわゆる「若衆宿」ですね)で教えられたことだったのでしょう。

Bまで読んだら、漢文の勉強としてはもういいのではないか。あと空いた時間で資格でもとったりこどもと遊んだり上司とゴルフに行ったりワインの品評をしたり・・・して、人生を豊かに使わなければそれこそオロカ者です。

ということでみなさんはここで終わりで、あとはわたくしひとりでやらせていただきます。

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孔子はBの中で、「幼馴染とは大きくなってからも幼馴染として付き合え」と言っています。それなのに、論語での孔子の原壌に対する態度は、すごい上から目線である。幼馴染をここまで見下すとは・・・ここのギャップがわたくしには悩ましくてならなかった。

「どうせ伝説であってウソ話だからそんなことに悩んでどうなるというのだ」

と長く自分に言い聞かせて悩まないようにしていたのですが、近日、荻生徂徠「論語徴」(小林環樹訳注:平凡社東洋文庫版)を読んでおりましたところ、徂徠が

・・・その郷党に在り、故(も)と相ひ親狎するの人為(た)ることを知るなり。孔子「杖を以て其の脛(はぎ)を叩く」も、亦た戯れを以て之れを行ふ。苟くも親狎するに非ずんば、あに此の如くならん乎(や)。(原漢文)

(葬儀を手伝っていたことから見て、孔子にとって原壌は、)同じ郷里の仲間うちで、ふるくから親しみ馴れ合ってきたひとであることがわかる。孔子が「杖を以てそのすねを叩いた」というのも、ふざけてやったことなのだ。親しみ狎れあっている間柄でなければ、こんなことするはずないではないか。

と書いているのを見て、

おお。

と声をあげて感激した。

今人遽(には)かに見て以て孔子之れを撻(う)つと為すは、大いに非なり。

現代のひとがここの部分だけ読んで、孔子は原壌がけしからんのでむち打ったのだ、と考えるのは、大いに間違っている。

と言っているのである。

なるほどなあ。

と納得し・・・かけたのですが、「論語徴」は「論語徴」で問題だらけの本だから、徂徠の解釈はおそらく間違っている、ということになるのだろう。・・・と思いますが、わたくしと同じ「感じ」を受けたひとはやはりいるのだなあ、とも思いました。Bまでしか読まないやつはこのオモシロサとは無関係なのでしょうなあ。@しか読んでないやつに至っては・・・

 

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