どこまで続く道であろうか。

 

平成21年 5月18日(月)  目次へ  昨日に戻る

5月11日の続き。

・・・わたしは山道を進んで行きます。すると、大きな関門が出てまいりました。何という関門であろうかと題額を見ようとするのだが、門の上の方は霞んでしまっていて額の文字がよく見えない。

「なんにしろ大きな関門じゃなあ」

と溜息とともに見上げておりますと、背後から「これこれ」と声がかかった。

振り向くと、いつぞやの薬採りのじじいである。

「やや、これはこれは」

とご挨拶をし、ついでなので

「じじいさま、この関門の題額は何と読みますのでしょうかなあ」

と問いかけてみました。

じじいの霞んだ目でわし以上に見えるはずはない。とタカをくくっての質問であった。

これに対してじじい曰く、

「さて・・・

「窮理」関でござろうか。いや、窮理というのはその真実を窮めることをいうのである。

「尽性」関でござろうか。いや、尽性というのはその真実を尽くすことをいうのである。

「至命」関でござろうか。いや、至命というのはその真実に至ることをいうのである。

窮之、尽之、至之、既皆是真、則不可有些子之仮雑于其中也。

これを窮め、これを尽くし、これに至る、既にみなこれ真、すなわちその中に些子(さし)の仮雑あるべからず。

窮める、尽くす、至る、どれをとっても対象は「真実」である。その中に少しでも仮のものが雑ざっていてはならない。

ところがあの題額にはかすみがかかっておりますなあ・・・、あれは真実なのであろうか・・・」

「はあ」

この老人は何を言っているのであろうか。

「もし少しでも仮のものが雑ざっているのであれば、心は専一ならず、行動は一路ならず、たとえここが宝の有り処だと信じて岩に穴を開けたところで、どこに宝物が見つかりましょうか」

「はあ、はあ」

わしは頷きながら、じじいと話していても埒が明きそうにないので、自分で関門の方に進んでみた。

近づいてみれば見るほど大きな関門である。その題額は見上げる彼方にあって、近づいてみてもまだ文字が霞んで見えない。関門の左右はそれぞれ切り立った峰になっており、その頂がちょうど門の屋根と同じぐらいの高さになっているようである。

「うーん、あの峰の上まで行けば、題額も読めるし、門の向こうの世界がよく見えるのかも知れん」

と思いながら、今度は下の方に目をやると、門のこちら側に三〜四丈(5〜6メートルぐらいをイメージされたい)ほどの高さの土塁があるようで、門の下の方もよく見えないのである。

それでも門まであと百歩ほどのところまで近づいてみた。

と、そこに、分かれ道があった。

左の道は段々と上に昇っていくようである。まん中の道は真っ直ぐに進んでやがて土塁の上に上がっていくようだ。右の道は段々と下がっていき、これは土塁にぶつかってしまうようである。

「はて、どの道に行けばいいのであろうか」

と立ち止まると、背後からじじいがついて来ておりまして、

「さてどうしましょうかのう。

道門有三乗之法。

道門に三乗の法あり。

タオの教えには三つの乗り物がある。

もちろん、「乗り物」というのは比喩である。タオを得るための「道のり」というぐらいの意味である。

@    務上乗者、乃上智之人、易于会悟、一了当千。

上乗に務むる者はすなわち上智のひと、会悟に易(やす)く、一了すれば千に当たる。

上等の道のりを行くひとは、上等の智恵のひとである。あっという間に悟ることができ、一を知れば千を知ることになる。

このひとは左の道を行きなされ。段々と登って、左の峰の上に至り、峰の頂からはるか彼方の真理も覗くことができよう。しかし、そこから関門の最上階に飛び移ることができなければ、関門の向こうに進むことは難いかな。。

A 務中乗者、乃中智之人、因象会意、聞一知二。

中乗に務むる者はすなわち中智のひと、象に因り会意し、一を聞いて二を知る。

中程度の道のりを行くひとは、中ぐらいの智恵のひとである。印を示されれば理解でき、一を聞いて二ぐらいは知ることができる。

このひとは真ん中の道を行きなされ。進めば土塁の上に上がり、そこから困難も無く門扉の前に至ることができよう。ただし、門扉をどうやって開けるか、は、近づいて見なければわからんぞ。

B 務下乗者、乃下智之人、極力研究、功深方得。

下乗に務むる者はすなわち下智のひと、極力研究し功深くしてまさに得ん。

低度の道のりを行くひとは、下等な智恵のひとである。力を尽くして研究し、努力深くしてやっとタオを得るであろう。

このひとは、まあ、なんですな。右の下に下りていく楽ちんな道に行きなされ。じめじめ湿ったところから土塁の隙間に入って門の下柱のあたりにたどりつけるよう・・・な感じじゃが、さて、そこからどうするのかのう。先の見えぬ行き方ではあるのう。

さて、いずれにせよ、いくべき道は実際の地面なのである。

懸虚不実、略不関心、不但中下之人終無進益、即上智亦落于空亡。

もし懸虚不実ならばほぼ関心せず、中下の人ついに進益無きのみならず、即ち上智もまた空亡に落ちん。

もしも虚空に懸かるニセモノの地面でないところを行こうとするのであれば、そんなものは心に関わるものではない。中智・下智のひとはもちろん何の進歩も無いであろうし、上智のひとも空虚に陥って、結果を得ることはできないだろう。

心しなければならぬぞ」

「はあ、はあ、へえ、へえ」

と相槌を打ちました。

そして考えてみた。

他にひとがいたら、わしもメンツがありますから、真ん中あたりの道を選んだかも知れませんが、ここにはほかにひとがいません。

なので結論は出た。

「左に峰を登っていくのはもちろんイヤですし、真ん中の道でも少しだけですが登りますから、登るのは疲れますのでイヤですでのう」

と、わしは、一番右側の下に下りて行く道を選んだのであった・・・。

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清・悟元道士・劉一明「通関文」より。

うまく通り抜けることができるでしょうかね。

 

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