あんまりいい加減に生きていると、怒られる!

 

平成21年 2月 2日(月)  目次へ  昨日に戻る

1月26日の続き。

また関門が現われた。

「もう飽きてきた」のですが、それでも次々に関門が現われる。この山は一体どういうことになっているのであろうか。段々と登っているつもりなのだが、実は下っているのかも知れぬ。ずっと薄明の中におり、星も日も月も無いゆえ、北に行っているのか南に行っているのか、昼なのか夜なのか、一つの関門から次の関門までどれぐらいの時間が経っているのか、さらには自分はハラが減っているのかいないのか、実はそんなことさえわからない。

・・・まあいいや。

――とりあえず定められた方向に、文句を言いながら歩いて行くこと。これは世間にあったころ、毎日会社や学校で自分がやっていたことと本質的に同じである。当時は疑問さえわかなかったのだ。今も疑問を持つ必要はないであろう。

と、ぶつくさ言いながら次の関門にたどりつきますと、関門の扉は開いている。これは簡単に通り過ぎることができそうだ。

ところが、関門のこちら側に、例の童子が立っていた。

「おお、童子、お師匠さまはいないのか。おまえさん一人だけかね」

と問いかけるが、童子はそれには答えることなく、

「実はこの関門は、あと一人しか通り抜けられないことになっているのでちゅ」

と言うのです。

「はあ? 関門まで来ているのはわし一人じゃ。わしが通ってしまえばよかろう・・・」

そのとき、

「おおい、待ってくれい」

と背後から声がかかりました。

振り向くと、ひとりの男が、大股に道を登ってくるのである。その男、わしの隣まで来ると、

「あと一人しか通り抜けられぬという関門はここでござるか」

と言うた。

童子、

「ちょうでちゅ」

と答える。すると、その男、ずうずうしくも、

「よし、では、わしが通りますぞ」

と前へ進みかけた。

「ちょっと待ちなされ」

とわしはその腕を引っつかむ。

「わしの方が先に来ているのですぞ。わしが通るべきなのは確実ではないか」

「なんじゃと? のうのうと立ちすくんでいたようなやつが、何をぬかすか。わしのように抜け目の無い者の方が先に行くべきなのじゃ」

とその男は譲らぬ。

「ええい、どきなされ」「いやじゃ、わしが行くのじゃ」

わしら二人は取っ組み合いになった。

と、そのとき・・・。

じゃーん、じゃーん、じゃーん・・・

と耳を覆いたくなるような大きなドラの音が、関門の二階から聞こえたのであった。

見上げると、既に童子は二階にあって、わしらを見下ろしながらドラを叩いているのである。

そして、その傍らには、悟元道士・劉一明の姿があった。

「おろかものめ。何を争っているのか」

「ああ、お師匠さま。この男がわしを押し退けて先に行こうとするのです・・・」

「その男、とはどの男じゃ?」

「え?」

わしは取っ組み合いをしているはずの男を見た。

・・・しかし、そこには男などはおらず、わしは、布の切れ端を右手と左手につかんで、それを左右から一人で引っ張っていたに過ぎなかった。

「あ? こ、これは・・・」

再び二階を見上げると、悟元道士の衣服の肩のあたりが破けている。

「肝冷斎よ。おまえが引っ張っているのは、このわしの衣の端じゃ」

「な、なんと・・・」

「関門の題額を見よ!」

と言うので、門扉の上につけられた題額を見るに「人我関」とあった。

「人と我、他者と自己、これは二つのものならず。よいか、

修道必須無人我之見。然欲無人、先須無我。

道を修むるには必ず人我の見を無からしむべし。然るに無人を欲せばまず無我なるべし。

タオを身につけるには、必ず、「他者と自己」という考え方を捨てなければならぬ。ところで、「他者」を無くそうとすれば、先に「自己」を無くさねばならないのである。

おまえはもう覚えていないであろうが、

原夫有生之初、不論賢愚貴賎、同一性命、同一形骸。何有彼此之分。既無彼此之分、則我如人、人亦如我、人我一如、即是天地大公無私之心。

夫(か)の生有るの初めを原(たずぬ)れば、賢愚貴賎を論ぜず、性命同一にして形骸も同一なり。何ぞ彼此の分あらん。既に彼此の分無ければすなわち我は人の如く、人はまた我の如く、人我一如、即ちこれ天地大公無私の心なり。

あの生命を持った最初のとき(――胎児として母親の胎に宿ったときのことを思い起こせ――)、賢いものも愚かなものも貴いものも賎しいものも無く、みんな同じ感覚しか持たず、みんな同じ形であったではないか。どうして、あいつ・おれの違いがあったであろうか。あいつ・おれの違いが無いのであれば、自己は他者と同じく、他者はまた自己と同じく、自己と他者は一の如くとなる。すなわちそれこそ、天地の大いなる公平無私の心なのである。

ところが、世間の者どもはその初めのときを忘れてしまって、

不知大公無私、物我同観之理。

大公無私・物我同観の理を知らず。

大いなる公平無私、対象と主体を同じ、という真理を知らないのだ。

そして、

日謀夜算以肥己、千方百計以取人。一行一事不肯譲人、一貨一利要討便宜。有利処鉆頭探手、無利処縮首蔵身。

日に謀り、夜に算え、以て己を肥らせんとし、千方百計以て人に取らんとす。一行一事ひとに譲るを肯んぜず、一貨一利に便宜を要討す。利有るところには鉆頭(てんとう)探手し、利無きところには首を縮め身を蔵すなり。

昼も夜も自分を肥らす方法を考え、千も百も人から奪うことばかり思っている。あらゆる行動あらゆる事件においてひとに譲るということをしようとせず、あらゆる品物あらゆる利益について、うまくいただこうと求め争う。利益のあるところには、針の頭を突っ込み手を出して探り、利益の無いところでは、首を縮め体を隠しているのである。」

道士、わしを払子で指差して、大声、雷鳴の如きを出した。

「今のお前の姿がそれなんじゃぞ!」

「ははー!」

わしは道士の衣服の切れ端を手にしたまま、その場に跪いた。

「も、申し訳ございませぬ。原初の自らの姿を忘れ、自分は他者と違う、という誤った観念にとらわれておりました」

「ふん。反省したか。何度反省しても何度でもおまえは今の言葉を忘れてしまうであろうが・・・。ただ、この関門の問題は、今のお前にはまだ難しすぎるのも確かじゃ。とりあえず先に行って、さらに自らを見つめなおすがよいであろう。・・・おい」

道士は童子に合図した。

「あい。今日は二回目でちゅね」

童子、ドラを鳴らす。

じゃーん、じゃーん、じゃーん・・・

道士、払子を振りながら言う、

吾勧真心学道者、速将人我関口打通。必如生初無人無我之面目、必如死後無人無我之模様。視万物為一体、視天下為一家。

我は勧む真心の学道者よ、速やかに人我関口を打通せよ。必ず生初無人無我の面目の如く、必ず死後無人無我の模様の如くせよ。万物を視て一体と為し、天下を視るに一家と為せ。

わしは、真心からタオを学ぼうとする者たちに言う、速やかにこの「人我関」を通り抜けて行け、と。必ず生命を得たときの、我も無く人も無き感覚を思い出し、必ず死んだ後の、我も無く人も無き様子を思い描けば、通り抜けることは容易いであろう。世界のありとあらゆるものを自分と一体であると観想し、天下はすべて一つの家であるかのように認識せよ。

否則有人我之見、彼此之分、私欲堆積、茅塞心竅、妄想明道難矣。

否なれば、人我の見、彼此の分有りて私欲堆積して心竅(しんきょう)を茅塞し、妄想して道を明らかにすることは難いかな。

そうでないならば、自己と他者という観念、あいつとおれという認識が残ってしまい、私欲がうずたかく積もって心という空虚な穴を塞いでしまって、妄想するばかりでタオを明かにすることは困難であろう。

さあ、行け、行け。今度ばかりは許してやろうぞ」

「ははー」

わしは申し訳なくて顔を上げられぬまま、関門を潜り抜けたのであった。

道士の衣服の切れ端は懐中に入れた。今後、この切れ端を見るたびに、生命を得たときの自分を思い出し、人・我の区分の無意味さを認識することになるであろう・・・。

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そんなにうまく心が入れ替えられるものかどうか、自分でも信じられませんが、とりあえず人我関は何とか通り抜けた。

清・劉一明「通関文」より。

 

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