平成21年12月19日(土)  目次へ  前回に戻る

昨日、

耽詩成癖

のお話をさせていただきました。

今日も「詩に耽って癖を成す」、作詩に魅せられて歪んでしまったひとのお話をします。

明・萬暦(1573〜1620)の半ばごろ、金陵(南京)を中心に「金陵詩社」といわれる作詩の結社がありました。中心になったのは文学史に名を遺す大家や高位高官に登ったひとたちですが、ほとんどは名も無く地位も無く財産も無い市井のひとたちから成っていたそうです。そのひとたちの中に、例外的に名前が遺っているひとたちがいるので、一部をご紹介しようと思います。

@王嗣経、字・曰常

身魁梧、多笑言、吟詩不輟。

身は魁梧にして笑言多く、吟詩輟(や)めず。

体つきはたいへん大柄で、のべつくまなくしゃべり、自分の話で自分で笑い、その合間に作った詩を口ずさみ、途絶えることがなかった。

というひとであった。

面円而紫色、人戯呼為蟹臍。

面円にして紫色、ひと戯れて呼んで「蟹臍」(かいぜい)と為す。

顔がまんまるで顔色が青黒かったので、ひとびとはからかって「カニのへそ」と呼んだ。

「カニのへそ」がどんなものか観察したことがないのでわかりませんが、いずれにせよ大したものではない、ということである。

A張正蒙、字・子明

金陵の通済門外に

臨河結廬、柴門昼閉、帯索拾穂。

河に臨んで廬を結び、柴門は昼閉ざして索を帯とし穂を拾う。

運河の川べりで粗末な庵を結んで暮らしていた。世俗と付き合わないので、その粗末な門は昼間から閉ざされており、彼は縄を帯にして、近所の落穂を拾わせてもらって生活をしていた。

貧窮していたが、人に援助を頼むことは無かったのである。

やがて年九十を過ぎて誰にも気づかれぬうちに亡くなっていたが、その庵には遺稿として律詩・絶句が数万首も遺されていたのだった。

B陳仲溙、字・惟秦

まことに愛すべき変わったひとであった。

性拙直、寡言笑、与人交接、言辞少払、即掩耳而去。

性拙直にして言笑寡(すく)なく、人と交接するも言辞少払すれば即ち耳を掩(おお)いて去る。

性格は世故を知らず素直で、言葉数や笑うことは少なく、誰かと話しをしているときでも、少しでも考えが違うところがあると、即座に耳を塞いで逃げ出してしまうのだった。

詩を作るにはたいへん苦しみ、自分で納得できるものになるまで推敲を続ける。

毎出其詩示人、以手按紙、手顫口吟、人或誦其詩、口喃喃与相応和。

その詩を出だして人に示すごとに、手を以て紙を按じ、手顫(ふる)え口吟じ、ひと或いはその詩を誦すれば、口喃喃(なんなん)としてともに相応和す。

そうしてできた詩をひとに見せるときには、手で紙を握り締め、その手をぶるぶると震わせ(て緊張し)ながら口ずさむのである。もし誰かがその詩句を気に入って口ずさむと、口をごにょごにょと動かしながらそれに唱和するのだ。

人が気に入ってくれると、うれしくてしようがなかったのである。

C呉文潜、字・元翰。

孤独でいることを愛し、苦しんで詩を作るひとであった。多作ではなく、何ヶ月もかけてようやく四行だけ作れたこともあった。

やがて、

棄家学道。

家を棄てて道を学ぶ。

「道教の修行をする」と言い遺して失踪してしまった。

武夷山で乞食をしているという噂であった。

ところが、

数載後、薙髪為僧。

数載の後、薙髪して僧と為る。

数年後、髪を剃り僧となって金陵に戻ってきた。

そしてまた苦吟しながら詩を作っていた。

D程漢、字・孺文。

性格は簡易を好んで礼を尊ばず、時に傲慢、目はやぶにらみで、ほおひげ・あごひげが剛直でまるで栗のイガのようであった。

そのような外見で、

見人輙自誦其詩。

人を見ればすなわち自らその詩を誦す。

誰か知合いを見かけると、自作の詩を聞かせようと吟じ出すのである。

多くのひとが嫌がって、彼の姿を遠くから見かけると道を避けるようになった。

年八十、老于布衣。

年八十、布衣に老いたり。

八十いくつになるまで、無官のひとの着る粗末な衣服で(官位も持たずに)老いたのだった。

老衰して町に出て来なくなってからは、その庵を訪ねていく者など誰もいなかったから、最期を知る者はいない。

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「列朝詩集小伝」丁集上より。

金陵詩社の仲間たちはまだ数人名前が残っておりますが、ほかのひとたちは次回のお楽しみとさせていただきまして、今日はここまで。@〜Dの中に自分の似姿を見てしまって慄いているひともいるかも知れませんなあ。

 

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