平成21年11月27日(金)  目次へ  前回に戻る

清のはじめのころ、蘇州の町でのこと。

顧景范がわし(唐圃亭先生)の家にやってきて、わしに言うたのだ。

「唐先生、あなたはどうして北宋の大儒・程伊川や、南宋の鴻儒・朱晦庵を批判するようなことをいうのか。儒学に反し、聖人・孔子の門下に罪を作っておられるのではないか」

わしは驚いて、

是何言也。

これ、何の言ぞや。

「なんじゃと?」

と反論した。

「程伊川や朱晦庵はいにしえの賢人であられますぞ。わしがどうしてその方々を批判などするものか」

これに対し、顧は怒りで目を瞠るように輝かせながら、声を荒らげて言うた。

内尽即外治。

内尽くさば即ち外治まらん。

「内面の倫理を完全にすれば、外部のこと=事業は立派にできるはずでござりましょうぞ。」

ああ、なるほど、そういうことか。

この間わしは、宋の儒者たちは倫理や人心の在り方など人間の内面を修養することに関してはたいへん精しい。しかし、実際の行政を行ったり裁判をしたり軍隊を動かしたりといった事業を行うこと=外治については教育カリキュラムを考えていない、として、彼らの学問を

精内而遺外。

内に精しくして外を遺(わす)る。

内面には精密であるが、外部のことは捨ててしまっている。

と批判したのであった。

そのことについて文句を言いにきたのだ。

「何を言うか」

とわしは反論した。

「わしは確かに程先生や朱先生と違うことを言うたが、

吾非非二子、吾助二子者也。

吾は二子を非とするにあらず、吾は二子を助くる者なり。

わしは上記の二先生を批判しているのではない、わしは二先生を補足しているのである」

「いや、そんなことはない」

「いや、そうじゃ」

と論争しておりますと、

「おなかが減りまちたでちょうに」

童子進粥。

童子、粥を進む。

童子がおカユを持ってきて、わしと顧君の前に置いた。

「いひひー、おなかを満たちて仲良くちてくだちゃいねー」

とイヤミに言いおいて童子は下がって行った。

「そうじゃなあ」

わしはおカユを啜りながら、言うた。

「そうじゃ、カユのことに喩えてみようではないか。

謂粥非米也不可、謂米即粥也亦不可。

粥を謂いて米にあらざるなりとするも不可、米を謂いて即ち粥なりとするもまた不可なり。

カユのことを「コメではない」と言うのは間違いであろう。一方でコメのことを「これがカユじゃ」と言うにも間違いであろう。

この両者の関係はどうなっているのか。

耕之、獲之、搗之、簸之、米成矣。

これを耕し、これを獲、これを搗き、これを簸して、米成れり。

田んぼを耕し、やがて収穫し、搗いたり糠をとったりして、ようやくコメがコメとなる。

しかし、

未可以養人也。

いまだ以て人を養うべからざるなり。

まだこのままではひとの栄養にはならないのだ。

必炊而為粥、而後可以養人。

必ず炊きて粥と為し、しかる後以てひとを養うべし。

必ず煮炊きしてカユにして、そうなってはじめてひとの栄養となるのである。

わかったかな?」

と顧の方を見た。

顧はカユを啜ったおかげで大分落ち着いたようで、さっきまでの論議など

「はあ? もごもご・・・何がわかるんじゃ?」

とどうでもいいようであるが、わしは言うた。

「人間そのものは「コメ」じゃよ。勉強し心を鍛えるのは耕作や収穫や搗いたり糠をとったりすることじゃよ。

治人猶炊也。如内尽即外治、即米可生食矣、何必炊。

人を治むるはなお炊くが如きなり。内尽くれば即ち外治まるは、すなわち米の生食すべきなり、何ぞ必ずしも炊かん。

ひとを一人前にするのは、炊くことである。それなのに、内面の修養だけすれば事業もできる、などという考えは、コメを生で食べることができる、と言うのと同じではないか。コメが生で食べられるのなら、別に炊く必要など無いわけじゃがな。」

「ああ、そうかも知れんなあ、もごもご・・・」

と顧は満足そうにカユを啜り続けていたものであった。

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清・唐圃亭「潜書」上篇の下「有為」条から採った。

コメの調理法のうち、現代のわれわれが食べるような「メシ」は、中尾佐助先生の分類では「前期炊き干し法」というのだそうで、

元来は粥を作っていたのが、かための粥となり、飯へと変転してきたものである。(「料理の起源」NHK出版1972)

としておられ、ボルネオなどにも同様の調理法があるとされている。

これに対し、華北では「蒸篭で蒸す前に、すでに熱湯の中でゆで」る「二度飯」という調理法が行われていたそうである(ちなみに徳川将軍が常食していたのはこの食べ方だという)。江南の蘇州では現代日本と同じ炊き干し法で、まだ粥で食べていたのであろう。(中尾先生の上記の書はもう四十年近く前の本なので考え方自体が古いのかも知れんがのう・・・。)

ちなみに相手役の顧景范というひと、景范は字で名は祖禹といい、無錫の生まれ、生活は極めて貧しかったが当世に名と富を求めず、野にあって地理書である「談史方輿紀要」を著わし、後世その業績を高く評価されるひとである。かっこいい。唐先生のともだちだったのですな。

 

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