平成21年11月15日(日)  目次へ  前回に戻る

月夜に月を求めてさまよい歩くと、世界の果ての崖から落ちてしまって帰ってこれなくなるのだそうでございます。気をつけてくださいよ。

今日は月夜でないからよいけれど。

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さて、昨日の続き。唐伯虎について。

彼の実家は呉中の商人であり、彼の父は唐広徳というのだそうですが、既に数代を経て、そこそこの財を積んでいた。

当時の呉中の街の殷賑は、

翠袖三千楼上下、  翠袖は三千 楼は上下し、

黄金百万水西東。  黄金は百万 水は西東す。

五更市買何曾絶、  五更の市買 何ぞかつて絶せん、

四遠方言総不同。  四遠の方言 すべて同じからず。

みどりの袖を振る妓女たちの数は三千人。たかどのを昇り降りして接客に忙しく、

貯えられた黄金は百万億。富を運びくる舟は水路を西に行き東に行く。

五更(深夜)になっても売り買いは途切れることなく、

四方の遠きから来た商人たちの方言は誰も彼も同じではない。

とうたわれ、24時間都市の体をなしていた。(唐伯虎「閶門即事」。なお、閶門(しょうもん)は呉中のうちの一都市で、伯虎の家郷である)

このような中で、伯虎は青年時代を過したのであるが、そのころの交友相手に、幼馴染の都玄敬や、悪友というべき張霊(字・夢晋)、彼もまた呉中四才子に数えられることとなる祝允明らがいた。あとの二人とは、酒を買う資金を稼ぐため、三人で乞食の姿で詩を門付けして歩き、夜には郊外の荒れ寺で酒宴を開いていたという。(蒋一葵「堯山堂外記」

伯虎の友人たちは基本的に町の人間であった。東洋ではじめて現われた「市民階級」といえば聞こえはいいが、明朝前半期の抑商政策の影響もあり、経済的には不安定でさえある。

これに対し、郊外には大地主がいて、安定した経済力を持っていた。

南京郊外の大地主の一つに徐家があって、応天府(南京のこと)解元である伯虎が、弘治十二年(1499)、北京に殿試を受けに行ったとき、同行した挙人(郷試の合格者)仲間の徐経はその家の跡取りであった。

この徐経が、旅の途次、伯虎に

「きみは、ほんとうに程敏政さまをよく知っているのか」

と訊ねてきたのである。

「もちろん。程先生とは手紙のやりとりを重ねており、今回、北京に着いたら面会したいと思っている」

徐経は小鼻を少しひそめて、笑った。嘲笑うというに近い笑いだ。

「それは無理だね」

「どうしてか」

「きみはそれも知らないのか。ぼくの知りえたところでは、程敏政さまは、今回の試験の試験官に任命されたのだそうだ。受験生と会うのは規則違反だぜ」

伯虎は程が試験官となっていることを知らなかった。しかし、受験生仲間では常識のことであったのだ。

徐経はそこで声をひそめた。

「まあ、程さまに会えないのは仕方ないとして、きみは程家の家人を誰か知らんかね」

「手紙の取次ぎをしてもらっている家司の方なら知っているが・・・」

「ふむふむ」

徐は今度は満足そうに笑った。

「それはよい。どうだろうか、その家司をぼくに紹介してもらえないか・・・」

そのあと、どこをどうやったのか、おそらくかなりの金をばらまいたのであろうが、徐経は家司を通じて、程の考案した試験問題をほぼ正確に入手したらしい。(ほんとうのところはわからないが・・・)

徐経は余裕綽々で試験を待つばかりの様子である。

伯虎は試験問題については興味はない。どのような問題であっても自分の答案が天下第一になるはずである。だが、徐経の「手際のよさ」を知って、これを誰かに吹聴したくなった。伯虎はまだ若く、世間というものをよく知らなかった、としかいいようがないのだが、ちょうど、受験者の一行の中には、幼な馴染の都玄敬がいた・・・。

(以下、また続く)

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「列朝詩集小伝」丙集、「明史」巻286等より。

 

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