平成21年10月 4日(日)  目次へ  前回に戻る

いにしえの魯の国の風俗では、

塗里之閭、羅門之羅、将門之漁、独得於礼。

塗里の閭、羅門の羅、将門の漁のみ、ひとり礼に於いて得たり。

塗里(と・り)、羅門(ら・もん)、将門(しょう・もん)の三は地名であろう、と想像されます。塗里は途(道)が魯の城門に入ろうとするあたりであろうし、羅門は羅者の多く住むあたりにある門、将門(「将」字を当てたところ、実際は「爿」へんに「攵」という字であるが、これは「将」に同じとされる)は師の出入りする門であったのであろう。「閭」(りょ)は門番、「羅」は鳥を捕るための「鳥網」の意で、おそらくこれを専門に使う猟師、「漁」はもちろん漁師のことである。

城門の近くに住む門番、羅門のあたりに住む鳥追い、将門のあたりに住む漁師たち、この三者だけが「礼」に則っていた。

「だから彼らは素晴らしい、といえよう」

と、孔子がこの三者をたいへん誉め讃えた。

そこであるひとが問うた。

「先生、何故にその三者は礼に則っている、と言われるのでしょうか」

孔子、答えて曰く、

塗里之閭、富家為貧者出。羅門之羅、有親者取多、無親者取少。将門之漁、有親者取巨、無親者取小。

塗里の閭は、富家、貧者のために出づ。羅門の羅は、親有る者多きを取り、親無き者少なきを取る。将門の漁は、親有る者巨なるを取り、親無き者小さきを取る。

@    城門近くの門番は、城内の民から給金があり、決して貧しいわけではない。しかし、彼は如何に富を得ていても、貧者が門を通りたいと言えば門を開けてやるのである。(=経済上の力関係と違った論理で働いている ⇒礼を得ているといえよう。)

A    羅門のあたりの鳥追いは、みなで協力して多くの鳥を網に追い込んで獲るのであるが、これを分けるに当って、親のあるものが多く分配を受け、親の無いものは少なく分配されるのである。(=供給した労働の量・性質や年齢その他の地位によってではなく、親を養うために必要があるかどうかという需要に応じて収穫を分配する ⇒礼を得ているといえよう)。

B    将門のあたりの漁師たちは、釣りで得た魚を分けるに当って、親のあるものが大きな魚を分配され、親の無いものは小さい魚を分配されるのである。(=Aに同じ ⇒礼を得ているといえよう)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

他の書にも出ているかも知れませんが、漢・劉向の編纂せる「説苑」巻七・政理篇より。

いにしえの経済というのはこういう経済が礼に適うとされたのですな。おそらくは、投入した労働に対応して分配されたり、投入した資本に対して分配される方がすぐれているのでしょうね。

 

表紙へ  次へ