沖縄観光記7 (起:平成25年2月2日(土))  目次へ  平成25年1月へ

おえらがたよ、まだ気づかないのか。わはははは。

平成25年2月

2日

どえらいエライ人の後ろの方から付き随う。オスプレイ反対のひとたちの「芸」観た。

3日

○浦添市民球場 →観タマを見よ。

○浦添市美術館 ・・・漆器

○安波茶樋水(あはちゃひーじゃー)・・・修復中。

○仲間

・仲間間切番所跡

・仲間火ヌ神殿内

←左下の石積が火ぬ神祠。今も祭は続いているのである。

・仲間根殿内

・待受毛 

・クバサーヌ御嶽 ・・・「由来記」の「コバシタ御嶽」という。「クバの木の下のウタキ」の意なり、と。

・仲間んテラ ・・・洞穴を埋め、祠の地下より入れるようにしたもの。この洞穴は「由来記」の「長堂ノ嶽」ならんという。

「琉球国由来記」巻十四

コバシタ嶽  神名、クワウジンノ御イベ     長堂ノ嶽  神名、長堂ノ御イベ

←クバサーヌ御嶽。戦前は昼なおくらい森であったといい、はるかむかしの裸ヌ世にはクバの木の下で子どもを産んだという。

←長堂の嶽。この祠の下に洞穴の入口ありという。

・仲間後原(くしはら)遺跡・・・浦添(渡嘉敷)に王府ありしころの城下集落の跡地なりという。

・仲間樋川・・・「由来記」に記述あるというも未見。

○前田

・玉城朝薫墓・・・劇聖・玉城朝薫の墓であるが、亀甲墓への移行型を示すという。

○首里

・普天間権現発祥地・・・詳細は別途

4日

○屋冨祖の殿(やふそぬとぅん) ・・・会社帰りに探し当てた。ガジュマル巨樹の下に鳥居あって、その奥に拝願所(ウガンジョ)、慰霊碑あり。これらが闇の中に黙って佇んでいるのである。今日は暑い日でしたがさすがに背筋に寒いものあり、コワくて鳥居から先入れず。また明るいうちに来ます。

8日

那覇新港に停泊中の世界青年の船を見学させてもらう。船内、A型インフルエンザが流行中とのこと。以前いっしょにしごとしていたひと(女人)に偶然会うた。

9日

○仲間ノロガー ・・・仲間のノロが儀礼のときなどに使ったガーであるという。

←斜面の下は浦添市民球場のスタンド裏になる。

○浦添市民球場(先週に引き続き) → 観タマ

○宜野湾市営球場  → 同上

10日

東村の海辺のホテルで爽やかに目覚めたり。

←美しい。

○慶佐次のヒルギ林 ・・・よかった。

←ヒルギとはマングローブのことと見つけたり。

○慶佐次の拝所、神アシャギ、ちくとぅん

東村はさすがに客熟れしておられる。拝所近くですれちがったオバアに挨拶したら、如何にも優しげに微笑みおった。その後、誰にも見られていないことを確認しながら拝所に参ったが、このときもよその村ならかならず居る「見張りんちゅ」がいなかった。ヨソモノを受け入れてくれる感じあり。
慶佐次拝所は神威強きもやわらかな雰囲気あり。ここは有銘ノロの管するところという慶佐次の「ヨリアゲマキウ嶽」なのであろうか。神アシアゲでは有銘ノロにより

・稲穂祭・同大祭

・年浴、柴指(しばさし)

・をんない折目の祭り

が行われたということである。(「琉球国由来記」巻十五

←右手の階段あがると拝所、裏に神威ふつふつたる山あり。正面奥にもガーあり。

○名護市営球場  → 観タマ

○名護市博物館 ・・・6年振りで訪問。あいかわらず剥製の多いドウブツ的なつくりが個性的。

←博物館ハザード。ひさしの上に大量の紫の花あり。

←これはアグーの親子。こういう剥製だらけ。

←博物館前の名護親方・程順則さまの銅像(「剥製」ではない)。程は「六諭衍義」の本朝への紹介者として名高い名儒である。

二見地名は海人族のものと思われる。二見のミュージックロードを走ってみた。名曲「二見情話」については→情話大会を見よ。

←二見より辺野古方面を望む。なお無用のことながら、ほかの地名は何とか言い訳もつこうが、「辺野古」と「漫湖」だけはマズイように思う。

11日

○北谷公園野球場 → 観タマ

○ちゅら〜湯、アメリカンビレッジ

○屋富祖の前の水(メーヌカー) ・・・ここより水田が広がっていたという。

○屋富祖の殿 ・・・4日に行って夜でコワかった殿に行った。今日もそこそこコワかったが写真撮りまくって帰ってきましたよー。

←左に拝所、真ん中が「芳魂の塔」(慰霊碑)、右端にちょっと見えるのは慰霊琉歌の碑。

14日

出張ついでに

○竹富島 ・・・ カイジ浜、西塘御嶽 をちら見。

←作られたように美しい砂浜(カイジ浜)

15日

本日は県立博物館でいくつか確認。いわゆる「沖縄線刻絵文字板」の展示をチェック。どう見てもUFO及びその母船であろうと思われる図柄があるが、「舟」と「建築物」とされていた。まあそう見えないこともないが・・・。

夜、勢理客(←一発変換。読めますか?)grooveにて「国吉亮 solo live 2」があったんで、寄ってきた。ゲストに舞木藍(実姉である)、アリア、大城仁。サイコーにゴキゲンの夜だったのさ。とりあえずは「ひとりブルース」「シトロン」「時間泥棒」など、亮クンのギターインスト聞いてから「しごとのために生きろ」とか「ニンゲンの価値は会社、会社、会社―!」とか、くだらねえゴタクを並べてみるがいいぜ、おエラがたのみなさんよ!

16日

○浦添市民球場 → 観タマ

○安波茶橋 ・・・ 王府時代、首里=恩納を結んだ「国頭方西海道」中、首里=浦添間にある石橋である。南・北二橋ありしが沖縄戦で破壊され、現在北橋が修復されている、とのこと。

←あはちゃ橋

○経塚 ・・・ 16世紀はじめの第二尚氏王朝初頭、阿波茶道に妖怪が出でたが、高野山僧・日秀上人が一字経石を書いて埋め塚を築いたところ、調伏されたという。その塚である。詳細はこちらへ→ 未載

←経塚。裏手は毛(モー。広場)になっている。

○沢岻のガー(井泉) ・・・西(イリ)ガー、古(フル)ガー、御殿(うどぅん)ガー

○弁ケ嶽 ・・・ びんぬうたき。首里城東方、佐敷や中城湾を望む丘である。海抜150mを越え、本島中部では屈指の高所。丘は東西二つに分かれ、西側を「小嶽」(こだけ・神名「天子」)、東側を「大嶽」(うふたけ・神名「玉ノミウヂスデルカワノ御イベヅカサ」)と呼び、いずれも王府の祀る聖所であり、斎場御嶽への国王の「おとおり」(遥拝)所であった。 詳細はこちらへ→冕大嶽、同小嶽ノ御イベ

大嶽のイベ前の石門は昭和11年指定の国宝で、園比屋武御嶽石門と同じく八重山の西塘の建造とされる。ただし沖縄戦で破壊され、現在は戦後、海外移民からの援助で建てたコンクリート門が樹下に立つ。

沖縄戦前は鬱蒼たる森林であったとのことだが、現在は大嶽の頂上まで登れる。拝所と三角標あり。山道途中で突然脇の茂みから女性現れた。見張り人、あるいはいよいよ実力行使の護り人(まもりんちゅ)かとも思うてすごい驚いたが、「ネコを探している」とのことで、特に見張られたり警告はされなんだ。

大嶽頂上からは首里城、那覇港、さらに慶良間の島々、宜野湾・北谷の向こうの東シナ海、東方には中城湾、運玉森、知念半島が望まれ、セジ高い場所であった。

山頂降りて来て公園内散歩していたら、先ほどの女性(40〜50歳ぐらい?)とまた出くわした。にこやかにほほ笑まれたので、敵意は無いようであられた。

←大嶽の石門。

←大嶽頂上部の拝所

←大嶽頂上部より西方(首里城方面)を望む。右下の丘陵が首里城。

17日

○北谷公園野球場、読谷村文化センター中庭 → 観タマ

←明日はまた月曜日。イヤだよ〜! と思いながら読谷から残波岬まで行って夕日を見た。

23日

○セルラー那覇球場 → 観タマ

○山下町洞穴遺跡
←崖墓の跡。こんなのがセルラー球場の側に、左右100mぐらい広がっている。

○りっかりっか湯

 

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