沖縄観光記5 (起:平成24年12月1日(土))  目次へ  平成24年11月へ

沖縄も寒いですよ。しかしまだまだこのページはおえらがたには見つかっておりません。わはははは。

 

平成24年12月

1日

勝連城

世界遺産さま勝連城へ。6年ほど前に御寄りしたことあるので二度目ですが、美しい城である。石積みの手法に違いがあるとはいえ、丸亀城や伊賀上野城の石垣を観るがごとく、度胆抜かれる。

一の郭の最高所には玉のみうぢ御嶽あり。城内のほかの御嶽とともに南風原ノロの所管に係る。

勝連城主は有名な阿麻和利で10代目になるということであるが、彼は秀吉型の下剋上の人であるからそれ以前の城主たちと係累は無いのらしいが、勝連城は、畏れ多くも柳田國男先生が「勝連文化」と呼んで首里方面の「浦添文化」と別系統のものではないかと示唆した東岸の海洋文化を代表する名城であります。その石造技術の素晴らしさ、郭どりの縄張りの見事さ、などもさることながら、山原からつながる沖縄の龍脈の先、半島を睥睨し、中城湾と与勝5島を俯瞰するその地の利においても驚嘆を禁じ得ぬ。

吾人は思わざるを得ぬ。もし、阿麻和利の首里攻め(その失敗によって彼は勝連城とともに滅んだ)が行われず、さらに数世紀の間、この城に拠った勝連按司が、首里・那覇にあって久米三十六姓に担がれて対明貿易にいそしんでいた第一・第二尚王朝に対抗し、十五世紀以降の日本本土と連絡する政治権力が確固としてあったとしたら・・・。アジアの大航海時代も、サツマの琉球入りも、それから後の日本史も、すべて大きく形を変えていたことであろうことを。

ちなみに、今回は東郭にも昇ってみた。南風原門下の南風原遺跡にも行きたかったのですが、雨も降ってきたので止めた。
←かっこいい勝連城。
←東郭より見る。

クトジ御嶽

勝連城の西側、中城湾側の海辺にあり。「琉球国由来記」にいう「コト瀬御嶽」であろう。往古チャイナ人女性あってここで亡くなったという。

津堅島

第一次調査を行うも雨繁く、寒いので30分で断念。御嶽や古い貝塚等のある島であるが、クボウグスク付近の茂みを通って「海底水道の碑」(山中貞則先生への感謝の碑である。山中貞則さんは沖縄のあちこちで彼に感謝する碑がある。今の沖縄論壇では後景に退いているが、いずれの世にかさらに高く評価されるひとであろう)と産水をとるアラカーを発見するのが精いっぱい。また来ます。

藪地島(藪地洞穴遺跡)

今回の与勝調査の最大の目的地である。1950年代にヤジャ―ガマ内の洞穴遺跡が発掘され、11層から成る土器文化の跡が確認された。「由来記」の「ヤブツ御嶽」との関連性はよくわからぬが、発掘後、あちこちからこの洞穴を聖所とするひとが訪れるようになり、今は洞穴入口近くに複数の拝所が設けられてある。わしが退去するとき、のろかゆたらしき老婆2人と、もうちょっと若い女が拝みにきた。顏は見られていないと思うが車のナンバーは知られたかも(帰りにコワいことあったし)。

洞穴前から海岸におりられる。雨寒かったが、ちょうど干潮でサンゴの海辺(いわゆるイノー)を散策することができた。

洞穴と海岸で、生きているニンゲンが見ることのできるいっぱいいっぱいのモノを見てきた感じ。肝冷斎史上屈指の感動である。ここまで来れたのだ。ありがたや。

←ヤブチ洞穴外観。

←海岸へ出てみた。

海の文化資料館(海の駅あやはし館)

勉強になりました。コウモリタコ、海中道路の経緯、うみんちゅとうみあっぱ、やんばる船の一年、宮本常一先生と与勝の関係など、知らなかったことをたくさん知ることができた。

雨がさらに激しくなり、今回は資料館で時間使ったこともあって、浜比嘉島を含む与勝四島の調査は断念す。

第五回島若人の集い

という民謡とか古典音楽の演奏会に行きました。県立芸大関係者や大城貴幸、伊藤幸太、池田卓など。沖縄市コザにあるミュージックタウン音市場にて。

2日

浜比嘉島

記紀の諾冉両神に該当する沖縄開闢神アマミキヨ・シネリキヨ神話と平家落人伝説を有する浜比嘉島を調査。同島は、浜(ばま)・比嘉(ひが)の二集落と比嘉に付属する兼久集落から成る。宮本常一大先生が御訪問なされ、多くのお写真を御撮りになられている。

○浜

やまとんちゅ墓 ・・・天保年間に水戸藩の廻船が難破した。船員のうち2人は救助されて帰国したが、ほかの5人は救助前に死亡していたので、これを葬ったもの。

東(あがり)の御嶽 ・・・御嶽というのがどういうところか、ここを見ればいっぺんにわかります。神聖なる亜熱帯の森の空間であられました。お邪魔するのはちょっと畏れ多い感じだが、うるま市文化財シリーズのパンフレットに導かれてきたのだ。寛恕あられねばならぬ。

ここは南山王であった平良忠臣なる者が仲間たちとともに逃匿した場であるという。旧暦の6月末と8月末(台風シーズンである)に藪地島を遥拝するシヌグ(神祭り)を行う。

浜の地頭代火の神・のろどぅんち

竜宮神の碑 ・・・西のビーチ前にあり。ビーチ埋立前にはここが海岸線で、さんぐゎーちゃー(三月祭)で目の前のイノーでの豊漁を祈ったという。

ざんぬいゆー、こいなー。すーくめいゆー、こいなー。まくぶぬいゆー、こいなー。(ザン(じゅごんサマ)の魚よ、いらっしゃれ。スークの魚よ、いらっしゃれ。マクブの魚よ、いらっしゃれ。)

←ザンの寄るサンゴ礁の「浜」

西(イリ)の御嶽 ・・・浜のノロはかつて金武王子のオナリ(姉妹神)であったという。この御嶽が「由来記」にいう「まさごろよりあげ御嶽」であろうか。

メーガー(浜の産水)

慰霊碑・シェリー大佐記念碑 ・・・シェリー大佐については不詳。

浜グスク

○比嘉

比嘉の地頭代火の神・ぬんどぅんち

按司墓 ・・・えらいところに入ってしまいました。文化財マップに書いてあるのに、現地に立札も何も無い意味わかった。今もまだ震えるほどにコワい。昔はアレのための穴だったのかも知れぬ。あんまり細かいこというとコワいので言いません。本日の神威(セジダカ)賞第一位。

ハマガー(浜泉)・・・比嘉の産水。

アマミチューの墓(アマンジ島) ・・・比嘉ののろらが年頭拝みする。久場島御嶽よりアマミチュー・シルミチュー(あまみきょ・しねりきょ)の遺骨を移したものという。「由来記」のアマミゾ御嶽であろうか。

←アマンジ島。中央部のボケはカメラに水滴ついたのであってコワい理由ではありません。この島のまんなか(くびれよりやや左側)が下写真のようになっている。

←中央やや右の洞窟入口にフタ。ここがお墓だという。

ブートゥイチーチ ・・・賦取り石ということでいわゆる人頭税石だ、という伝えになっているのだが、現在の高さは30センチぐらい。

アガリガー(東泉)・ミーガー

平家墓 ・・・発見できず。文化財マップには書いてあるのですが・・・。なんかまずいことがあるのかも・・・。

○兼久

シルミチュー ・・・海岸の鳥居をくぐり階段を昇り詰めると・・・。アマミキョ・シネリキョの両神(「琉球開闢のこと」参照)はこの洞穴でお暮しになったというのだ。入れないようになっていたが、中をぐりぐりと覗くと、鍾乳石がすだれのようにかかり、その奥に鍾乳石に隠されて、両神がお暮しになられた場があるようである。風・雨強く、自然にその威にうたれて跪いたのであった。(一説によるとこの奥には陽・陰二石があるとのこと。ありがたや)

←シルミチュー参道の石段入口。

←中には通常入れません。このあたりで神威すでにびしびしたるものあり。

このようなオムロ(お部屋)に尊き神がお暮しになられたかと思うと、「にらい・かない」→「にるや・かなや」→「瑞屋・金屋」説(間宮厚司)に強く傾いてしまう。岩続きに比嘉クバ島遺跡あり。

←クバ島。間に海があるので渡るのは無理。中央部のくぼみのあたりがクバ御嶽(元のアマミチュ・シルミチュさまの葬地という)。クバ島祭祀遺跡でもある。

ソウジ御嶽 ・・・海岸線にあり。

7日

県立美術館にて本土復帰40周年記念「アジアをつなぐ―境界を生きる女たち」展を観に行く。解説文を書いている学芸員さん?の頭の構造には驚いた。あらゆることがフェミニズムと境界とディアスポラで出来ている、ということになっているらしい。
知り合いの女流画家(←!)の作品が展示されているので観に行ったのである。さすがにその人のまでは「フェミニズムと境界とディアスポラ」では解説されていなかったのでほっとしました。

8日

今日は久しぶりで南城方面へ。南城市は「水とグスクの町」と名乗っているので、まだ見遺している名水とグスクをいくつか見に行った。

○垣花樋川(かきはなひーじゃー) 

道路から石坂を降りる。かなり降りたところにあり。途中蚊の多いところであった。名水100選の一なり。特に最初に撰ばれた31水に入っている、というのがすごいことらしい(解説板による)。知念半島、久高島、太平洋見える。掃除中の地元のひとがいて、あいさつしたけどちょっとコワかった。

←水飲んでみたらヒリヒリした。

○垣花グスク

一の郭・二の郭あり。城跡はかなり荒れていたが縄張りははっきりしていた。「由来記」の「垣花之嶽」と思われる。

←二の郭。ゲゲゲ状態。

○仲村渠樋川(なかんだりひーじゃー)

簡易水道が出来る前の姿が復元されており、おとこ水、おんな水、五右衛門風呂などあり。

←お賽銭で管理されているとのこと。

○ミントングスク

あまみきよさまの創世神話の残る(あまみきよさまのご住所であったという)小山。今回は登り口がわからず遠景のみ。登り口らしいところわかったのだが民家の脇で、民家のひと(しかも老婆)がいたので断念。

←中央左ぐらいに巨岩あり。ここまで行きたいのだが。

○玉城グスク

国史跡なり。全体の規模もよくわかるが、一の郭のみがよく石積みの原型をとどめる。アーチ型の入口が有名。「由来記」に「城内にあり。阿摩美久、作り給うとなり。詳らかに中山世鑑に見(え)たり」として「雨粒天次」があり、アガル御イベ・ツレル御イベの神を祀るという。

←一の郭正門。

←一の郭より南西方向を望む。はるかに久高島。

○糸数グスク

度胆抜かれる規模で石積みが連なっていた。教育委員会の解説では「構造は単純である」ということであるが、単純でもでかいとすばらしい。玉城グスクの按司が長男を大城に、次男を糸数城に置いた、ということであるがあまり詳らかでないようである。糸数のろのつかさどる糸数城之嶽(モリテル御イベ)があるということであるが確認できず。

←西方向の石積み。

←北方向の石積み。

このあと、浜川御嶽や受水走水に行こうとしたが車の止め場所とかわからんので断念。グラスボート乗り場の500円の有料駐車場に止めればよかったのかな。

○琉球民政府・佐敷政府跡

1946〜48の間、那覇がまだ灰塵に帰しておったころ、佐敷の地に民政府が置かれていた。今の「ユインチ(寄満)ホテル・佐敷の湯」の場所だということである。佐敷の湯入って夜景みて帰ってきましたわ。わははは〜。

9日

本日はオキナワ・ミニ・デイ(inガンガラーの谷)に参加。寒かった。

←スクラップの山かゴキブリホイホイかと思ったらミニの集まりでした。

14日

沖縄県立博物館にて「大山盛保生誕100年記念展」を観覧す。港川人の人骨発掘で名高いが、若いころのカナダ出稼ぎ時代、米軍通訳、実業家としての活動についての紹介があり、おもしろかったです。

15日

本日は新原(みーばる)の琉球開闢聖地を観に行った。14日に駐車場発見できなかったので、今回は再チャレンジ。

受水走水(うけみず・はしりみず。または、うきんじゅ・はいんじゅ)

車にて「夏期のみ有料」という駐車場に止めて観覧す。海岸段丘の下に水が湧き出すところが聖地となっているのである。少し水飲んでみたところ、ヒリヒリはしなかったが、生ぬるかった。今日暑かったですからね。

アマミコさまがニライカナイからもらってきた米の種をはじめて播いた、という伝説(→こちらを見よ)のある沖縄の稲作開始遺跡とされる聖地である。

「琉球国由来記」の「ウケミゾハリ水」であり「ホリスマスミカキ君ガ御水御イベ」が祀られる。

←受水

←走水

なお、受水と親田には標識があったが、走水には無かったので、もしかしたら間違ったものを見てきたのかも知れません。

浜川御嶽

神威びしびしたるものあり。東廻り聖地の一なので観光客または参拝者がそこそこいた。

←浜川御嶽。左手にジャングル湿地、撮影者の背後の方にヤハラヅカサに出る森あり。

ヤハラヅカサ

浜川御嶽を出た海べにある岩場。もともと、浜川御嶽に祀られる神が「ヤハラヅカサ潮バナツカサノ御イベ」である。

アマミキヨさまはこのヤハラヅカサの岩場を足掛かり(あしゃぎ)にされて浜川御嶽、ヤブサツ御嶽、ミントングスクに上陸されたのであるという。現在は石碑があって、満潮時には海に没し、干潮時にはそこまで歩いて行けるようになっておる。わしの訪れたときは満潮に向かう時間で、石碑は半ば海中にあった。この地(百名の浜)はイノーの向こうの波立ちが高く、浪どうしがぶつかって崩れていく姿など、確かに海神の猛る心を見る思いであった。

←右側のが碑です。一見して変なひとなどもお参りに来ていた。

ヤブサツの御嶽・アイハンタの御嶽

ヤブサツの御嶽はアマミクさまがお作りになった(その仮宮であったという)と「中山世鑑」にあり。アイハンタ御嶽は汪が干ばつのときに行幸して拝することとなっていたセジ高い御嶽である。しかし今も玉城・仲渠村のひとびとの祭りの際以外には他人の訪れるべきところにあらざるゆえ、場所の明示無く、確認できなんだ。わしもコワいからたどり着けなくてよかった感じ。

←なんかいいことありそうな空を見た。

カワウカウ

稲作開始神話の別説によると、稲種はニライカナイから鶴が運んできて、本来国頭の方に行くべきであったところ、暴風雨によりアマミコさまの住む新原の地に落ちた、という。その落ちた地を祀る泉(ガー)。

知念奥武島

今日は一周してみただけ。南側の浜から西の海に日が沈みゆくのが見えた。いわゆる「日の入り屋」→「シネリ」である。

童子がその海のかなたを指さして、

「見えまちた! ニライカナイの入口でちゅよ! ほら、あそこに!」

と呼ばうのだが、その入口はわしには見えなんだ。それでも美しい黄金色の波に日が沈み行くのを見ると、どうして若いころ師といっしょに補陀落渡海に挑んで、そのまま南海に消えてしまわなかったのか、とさえ思うたものである。

←おらと一緒にニライカナイさ、行くだ!

16日

首里城

本日は朝、お東京のお客様を首里城にご案内し、好き放題ウンチクを述べてまいりました。ああキモチよかった。

豊崎モール(アシビナー)

アウトレットモールなので、わしが買うもの無かった。午後からは金武町方面へ。

金武観音寺(権現社)

なむかんぜおんぼさつ。ついに琉球八社が揃った。(観音寺の鍾乳洞は途中(無料で入れるところまで)しか入ってないので、また行かねばならないが。ユイショなどはそのときに書きますね)

八社揃うと人生観変わるか? と思ったけど変わりませんね。

←この建物は昭和17年建立。

←鍾乳洞。もっと奥まで行けるのだが、酒屋でチケット買うと灯りをつけてくれる、というのを知らなかったので、今日はここまで。

帰りの夕日が美しかった。補陀落にはこんな夕日が毎日毎日沈むのであろう。南無観世音菩薩。

←夕日。うるま市の方に沈んでいる。明日になると日本がいい国になっていますように。

トムスズ御嶽(トムスズ森林公園)

「由来記」にいう「トムツゞイベ」なりという。神名はシマネドミ、稲大祭が行われ、仙香、花米、酒が金武邑の百姓どもより供えられるといい、金武ノロの所管であった。

今は公園化されて中に入れるが、なお神庭の形が明瞭に認められる。大アコウの木の枝で何やらのそのそと騷ぐものがあるので見上げると、ネコよりでかそうなコウモリが二匹であった。夕暮に活動をはじめているらしいのであった。

←北側からトムスズ御嶽を見る。

金武ノロ殿内

トムスズ御嶽を望む場にあり。

金武上之毛(ウェーノモー)

左隅の銅像は大城孝蔵。フィリピン移民の先駆者である。

←右手の展望台から与勝4島などがよく見える。

なお、本日はブックオフで「エリックレコード復刻:沖縄フォーク村」と「復刻RBCラジオソング・沖縄ホームソング」を入手。フォーク村において如何に佐渡山豊の力量が飛びぬけていたかよくわかる。彼だけが東京に出てプロとなり、やっかみの中で才能をすり減らす苦しみを得たのも致し方ありますまい。ホームソングの方はやっぱりフォーシスターズはいいですね。「軽便鉄道節」なんか不覚にも涙出たわい。

22日〜23日

第一次北大東島調査を敢行す。

←これで行くよ。

総論として、やはり「沖縄」ではない感じが強いですね。一言でいえば「禁忌が無い」。御嶽が無い(下にあるように近年のものが一つだけあるが山止めなど禁忌はない)、お墓が共同墓地に固まってある、戦跡が無い。文化の積層が薄い(まだ開拓以来百年余)とこんなにも世界は明るいのか。北海道的なスカスカ感あり。

「大東諸島」は、かつて、第一尚氏の勃興に伴うて「にらい・かない」が北方から東方に移ったとき、久高島のさらに東に「大東」(うふあがるい)の地があると伝承されたため、はるか後代に発見された無人島に南・北「大東」の名が附され、今度は逆転して、近年の沖縄の信仰者の間でいわゆる「東方(あがりかた)にらい」として信仰対象とされるようになったのである。このため、両大東を「おとうり」拝みする行事などもあるそうです。

人の心の愚かしさ。しかしながらそれほど切実な祈りがある、ということでありましょう。

○燐鉱石貯蔵庫跡・東洋製糖工場跡 ・・・ いずれも圧倒的な廃墟であった。すばらしい。一攫千金、搾取、請負、競争、出稼ぎ・・・。資本主義の荒々しさを目の当たりにする思いである。訪れたときは波荒く、日暮れなずみ、南大東の島影も寒風のかなたであった。

←燐鉱石貯蔵庫跡。

←同上、地下通路。フナムシ多し。

←製糖工場跡地。

←上の建物の中から海側を見る。

○黄金山・灯台・海軍壕跡 ・・・ この地下に燐鉱山あり。山上からかつてトロッコ軌道があったということであるが、確認できず。

○金比羅宮

○玉置半右衛門顕彰碑 ・・・ 東京の冒険資本家・開拓者・玉置半右衛門を記念する碑である。拝所化しつつあった。

○観音像・獣魂碑

○地蔵像

○国標 ・・・ 明治18年、沖縄県属なんとかさんが上陸してここが沖縄県の管轄する日本領であることを明示した木製標示。現在のは三代目。

○上陸港跡 ・・・ 波荒かった。明治36年、玉置半右衛門らがここに上陸。

○大東宮 ・・・ 神威やわらかなるものあり。南大東にあるのは「大東神社」。このあたりの森がダイトウコウモリの棲息地であるという。森はそれほど深みを感じない。

○赤池、汐見橋など 

○長幕(ながまく)・屏風岩

○秋葉神社・天狗岩 ・・・ 天狗岩なる小さな岩山の麓に秋葉神社あり。天狗岩の頂に小洞穴あってここが御嶽となっていた。

←左手の鳥居の奥が秋葉神社。右手の岩の頂あたりに御嶽あり。

○沖縄海 ・・・ 干潮時に外海と切り離されてプール化するそうだが、訪問時は波すさまじまった。

←太平洋の怒涛が押し寄せてくるんですわー。

なお、北泉洞という立入禁止の鍾乳洞があるとのことであったが発見できず。

あまり見る物ありませんが、鉱石貯蔵庫と製糖工場跡は近代の荒々しさを感ずるためにもぜひ一度訪れるべし。観光鍾乳洞などもある南大東にもこの二つは無いそうですし。

←こんな情景見たくありませんか? 燐鉱石貯蔵庫跡から南大東方面を見る。

24日

○浦添・安波茶 イリの御嶽 ・・・市役所の裏手にあり。市街地にあるくせに「入らず」になっているようである。

その後、読谷山に行ってみた。

○喜納番所 ・・・道の駅になっている。明治18年以降は間切役所や村役場になっていたそうです。

○喜納観音堂・土帝君(トーティークン)祠 ・・・ 観音堂は金武観音寺から請来したものとのこと。土帝君像は沖縄戦で壊れ、今は土台みたいなのが残るのみ。

○座喜味城 ・・・約6年ぶりに訪れたが、あいかわらず石壁美しい。ただ、この城は護佐丸の築城とはいえ中城城と違い実戦に遭っておらず、その縄張りなど見ていると防御の基本方針などちょっとよくわからんところもあります。ところで「ザキミ」って「岬・見」じゃないの?

←一の郭の石塁上より二の郭→一の郭のアーチ門を見下ろす。

○残波岬・西の神拝所 ・・・寒かった。

チビチリガマや赤犬子宮や阿摩和利墓に行きたかったのだが発見できず。看板ぐらい出してほしいですね。反日ソング「さとうきび畑の歌碑」の案内板はそこいら中にあるのに。

26日

お客さんを案内して国際通りへ。タコス食う。それからはじめて牧志公設市場で魚食う。うまいけど量が多すぎ。

28日

しごとを終えて仲間と一杯・・・の後、おれは那覇市内のライブハウスoutputに「ブルース・オヴ・コザ」を聴きに行った。国吉亮、ローリー=クック、佐渡山豊と最近追いかけているやつらが一パツで三人とも聴けた。すばらしい。

国吉の「ひとりブルース」「ブルー」などサイコーだぜ。

ローリー氏のおやじが普久原恒勇であることは有名だが、国吉のおやじがジャズ・ギタリストであったこと、佐渡山が普久原門下であったことははじめて知った。もっともっと勉強するぞ。

←左から、ローリークック、佐渡山豊、国吉亮。かっこいい。

29日

今日は福岡の若い人が5人(うち1は熊本)来てくれたので、首里城、玉城城を案内した。斎場御嶽も行ったけど年末で休館中でした。(>_<)

 

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