肝冷斎観タマ記22−10(平成22年10月3日〜)  表紙へ戻る  観タマ記22−09に戻る

←秋がきましたなあ。

平成22年10月 3日(日)  表紙へ     
1330(1320到着)〜1631  マツダスタジアム
セントラル・リーグ戦 広島東洋カープ対阪神タイガース戦
阪神     100 203 001   
広島東洋  000 001 010   

 主審:敷田  一塁:杉永  二塁:   三塁:橘

広島に寄ってきました。阪チソを今年はじめて見ましたが、なんだこの打線は。三割とか四十本とか一番打者の100打点とかぞろぞろすごいのがいますね。そして、広島の選手と比べて、でかい。みないいもの食って、でかくなったのだろう。悪魔と契約して野球もうまくなったのでしょう。ぼこすか打ってました。マートン氏は210安打の日本タイ記録です。
試合終了後、広島の監督・コーチ、選手がボールの投げ込みをやったが、ちょっと待て。
監督、何か言ってくださいよ。オープン戦の最後の試合の大敗後に、「今日はぶざまな試合をしてしまった。シーズンに入ったらこんなことはさせません」と言ってた、その結果を受け止め、来年どうするか、方向性ぐらい示せよ。
と思いましたが、言うても聞こえぬだろうと思いますので、黙りこくって帰ってきた。
去年と比べると球場入りやすくなりましたね。何か人が減っているんですよ。コンコースも。客足が一割〜二割減ですね。
←今年のかなしみの数、来年への夢の数だけ空に風船を飛ばそう、と思う。

平成22年10月 6日(水)  表紙へ     
1800(1950到着)〜2050  明治神宮野球場
セントラル・リーグ戦 東京ヤクルトスワローズ対広島東洋カープ戦
広島東洋   000 000 000  
東京ヤクルト  000 010 01X  

 主審:不明  一塁:不明  二塁:不明  三塁:不明

館山完封。大島押し出し。
さて、今日は広島ファンの一部が「大野村」(野村監督・大野コーチ体制を指す隠語)を批判し、その退陣を要求するパネルを「命がけ」で掲示する(球団と癒着?した「応援団」に何をされるかわからないから)―――という触れ込みだったので、わくわくしながら試合終了を待ちましたが、結局何も無し。かつて「郷土の恥 二岡」ののぼりを立てた良心的広島ファンの魂はどこに行ってしまったのか・・・。まあ、おいらも何もしてませんし、大野さんも犬二郎もきらいにはなれないけど。自分の似姿として軽蔑する、だけです・・・。
一応、
「監督勉強中」「ファン苦行中」というパネルを掲げる勇気ある二人組みがおられたことは特筆しておく。
←寒くても集まってきたひとたち。

平成22年10月10日(日)  表紙へ     
1800(1720到着)〜2051  明治神宮野球場
セントラル・リーグ戦 東京ヤクルトスワローズ対広島東洋カープ戦
広島東洋   210 200 001  
東京ヤクルト  010 021 000  

 主審:笠原  一塁:本田  二塁:佐々木  三塁:木内

昼間、ライオンズがマリンに敗れ、クライマックスの第一ステージが終わった。
まさかライオンズより後までカープとスワローズが野球やっているとは思いませんでしたが、やっていたんだからしようがない。栗原や嶋のホームランや梵のファインプレーやら観ました。
志田、ユウキの引退試合でもあった。
来年まで野球見れないんだなあ、と思うともうさびしくてしようがない。晩秋ですなあ。
もうおしまいだよ〜。

平成22年10月11日(月)  表紙へ     
1100(1325到着)〜1332  明治神宮野球場
東京六大学リーグ戦 明治大学対法政大学戦
法政   100 000 000  
明治   000 004 000  

 主審:不明  一塁:不明  二塁:不明  三塁:不明

明治の野村を観た。
それにしても暑いです。

1410〜1625  明治神宮野球場
東京六大学リーグ戦 立教大学対東京大学戦
東京   000 000 000  
立教   100 001 01X  

 主審:船山  一塁:山口  二塁:中西  三塁:萩原

暑かったです。
それにしても弱いですね。どちらも。立教もこの相手にこの試合ではなあ・・・。東大の一年・時習館の鈴木投手がよかったとはいえ・・・。

平成22年10月16日(土)  表紙へ     
1100(1250到着)〜1321  明治神宮野球場
東京六大学リーグ戦 明治大学対慶應義塾大学戦
明治     020 000 020  
慶応義塾  000 000 000  

 主審:不明  一塁:不明  二塁:不明  三塁:不明

また明治の野村を見た。
第二試合(早稲田―立教)で斎藤投手を見た。少なくとも大学に入ってから初めて見たように思うが、制球のよろしく無い投手ですね、と思いました。
しかし、二回までしか観なかったので、もう観なかったことにしてもらっても構いません。午後三時前に、別の用事があって神宮球場を後にしたのだった。

その後、頑張れ日本 尖閣抗議集会・デモに参加し、シナ大使館前で悪態をつきに行った。そして、公安に追われるように群馬へ。

平成22年10月17日(日)  表紙へ     
1300(1240到着)〜1612  上毛新聞敷島球場
BCリーグ・プレーオフ戦 群馬ダイヤモンドペガサス対石川ミリオンセラーズ戦
石川   311 000 000  
群馬   000 002 020  

 主審:西岡  一塁:茂木  二塁:渡辺  三塁:野村

あーあ、石川がBC王者になりましたよー。香川オリーブなんとかと独立リーグ日本一の座をかけて闘うのは石川になったのだ。ということは、もう関東では試合がないんだあ。
優勝の決まる試合をみるのは昨年の都市対抗以来ですが、あのときは外野席だったが、今回は内野で見ていてはじめて知った。本当にうれしいときは若者は
「ひゃひゃひゃひゃーーーー」
と笑い声を上げるのだ、ということです。
「おれら、おれら」とか「おいおいおいおい」ばかり叫んでいて、ほんとうに嬉しそうだったです。おいらの人生にもこれほどの晴れやかな日があっただろうか。
←上毛球場はひさしぶり。←妙義山が見える。←試合終了。←石川の選手たち。おめとうごます。
←東京へ帰らねばならない。東京方面、暗雲たれこむ。

平成22年10月23日(土)  表紙へ     
1428(1410到着)〜1702  明治神宮野球場
東京六大学リーグ戦 法政大学対東京大学戦
東京   000 001 000   
法政   030 024 03X  12

 主審:桑原  一塁:戸塚  二塁:鈴木  三塁:中西 (8回点灯後) 右翼:船山  左翼:藤元

もう行くところがないので、また来ました。第二球場で秋季の高校生の大会をやっていたのですが、日大三=都立昭和戦で700円ではちょっと・・・。
そこで、第一球場に入る。こちらも法政と東大ではちょっと・・・なのですが・・・。
法政の加賀美を観た。
東大は1失策ということになっていますが、東大の野手の(実質)失策は失策にとらないんですね。信じられないようなプレーだけでなく、普通のエラーもすべて安打の記録になっているので自責点が多いですが守備ひどいです。
「六大学で一番長く神宮のグランドに立ちたかったら東大の選手になれ」
という言い回しがあります(もちろんヒニクですが)。それが現実になったような試合。2時間30分の試合ですが、そのうち2時間ぐらいは東大が守っていた。
本日、ドラゴンズが日シリ出場を決める。サヨナラ。

平成22年10月24日(日)  表紙へ     
1422(1420到着)〜1752  明治神宮野球場
東京六大学リーグ戦 明治大学対立教大学戦
立教   000 000 000 3  
明治   000 000 000 0  

 主審:青木  一塁:木幡  二塁:中西  三塁:萩原 (7回点灯後) 右翼:藤元  左翼:鈴木

今日は3時間30分の試合でした。しかし、昨日の試合と違って好ゲーム。立教がまければ両チームの4年生はこれが最終戦になる試合ですが、七回ごろで真っ暗になり、さらに八回あたりから雨が降り出して、だんだん強くなってまいりました。延長10回、そこまで好投していた明治・西嶋がついにつかまり、立教のあほあほ攻撃(無死からヒット→盗塁死、三振で二死無走者)にもかかわらず(二死からヒット、四球、四球、四球)で先制点を献上、交代した森田が立教の主将・田中宗に中前打を打たれてほぼ勝負あった。
が、その裏、一死一塁から立教・左翼北田の失策、四球で一死満塁でがたがた行くかと思いましたが、続く代打・川辺が遊ゴロ併殺で終了。
オモシロかったがずぶ濡れになりました。寒かった。

平成22年10月31日(日)  表紙へ     
1300(1245到着)〜1540  明治神宮野球場
東京六大学リーグ戦 早稲田大学対慶應義塾大学戦
慶應義塾   100 001 000   
早稲田     000 000 000   

 主審:青木  一塁:萩原  二塁:元雄  三塁:上野

(群馬)富岡中学から早稲田に荻野喜代志といふ剛球投手を出した。荻野は富岡の町に生まれ、同中学を明治四十四年(1911)に卒業して早稲田に投じた五尺八寸余の巨漢であつた。・・・四十五年以後大村隆行に代つて投手板に立ち、慶應の菅瀬投手とともにやがて双璧と称へらるべく思はれた。・・・研究心にも富み、その速力を利用してホツプする球を案出し大いに功を収めんとしたが、家庭の事情のため中途退いて朝鮮に渡り、黎明期にあつた朝鮮野球界に独歩し、ホームランを打ち込んだのが縁となつて佳人を娶つたなどのロマンスを残したものであつた。(飛田穂州「野球人国記」昭和6・誠文堂)
荻野はその後、入営中に事故で一眼を失ったが野球を棄てず、東京に帰って本所汽車会社に勤務してプレーを続けたが、大正十四年(1925)の復活早慶戦の直前に彼の訃報が伝えられた、という・・・。
なむだぼち。
日本野球史を「じやいあんつ」中心に構成するいわゆる「読売史観」は棄てなければいけません。しかし、読売史観を棄てると今度は全国中等学校野球を中心とした「朝日史観」(飛田穂州もその一翼を担いでいるわけだ)や都市対抗野球に重点を置く「毎日史観」・・・、何とか払拭していったら、今度は「早慶戦史観」が克服すべきものとして現われてくるのである。くそう。負けるものか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まあいいや。
台風も過ぎたので、今日は試合がありました。さすがによく入っていた。
半ケチと大石を見ることができました。試合は慶應の先頭打者・渕上のソロホームランで始まり、お互いに好プレーありミスありしながらズルズルと終わり。緊張感のあるいい試合でした。これで慶應が明日も勝つと同率首位になって3日に優勝決定戦、明日早稲田が勝てば明後日の勝ち点決定戦を待たずに早稲田優勝決定。明日も観たい、観たい、観たい〜。・・・が、許されぬ。解き放つべき鎖を持つゆえに。
早慶戦(慶早戦)は試合前に「ああ花の早慶戦(慶早戦)」という歌を歌ったり、もっと儀礼的だった記憶がありますが、もう廿数年前の記憶です。集まり散じてひとは変わるし、時代もどんどん変わっていくのだ、と思いましたよ。

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